先回まで、五回にわたり「親鸞と現代の諸問題」について連載させていただきました。
今回から、新しく「親鸞とルター」というテーマで連載を始めさせていただきます。二か月に一度のペースで、国際的な場に立ち、新しい角度から親鸞の人間性と信仰について言及したいと思います。ご愛読いただけますよう、お願い申し上げます。
【連載・親鸞とルター―世界から見た親鸞像―(1)】
皆さまの中には、このテーマをご覧になって驚かれる方も多いと思います。親鸞は日本の13世紀の仏教者、ルターはドイツの16世紀のキリスト者であって、生きた時代も場所も宗教的背景もまったく違うのに、なぜ同じ土俵で論じることができるのか、と。たしかにその通りでもあります。しかし思いのほか、この二人には共通点が多いのです。
たとえば有名なドイツの社会学者マックス・ウェーバー(1864~1920)は、「十三世紀初頭に開創された真宗は、少なくとも一切の自力行を神聖化することを拒否し、阿弥陀仏への敬虔でひたむきな帰依の意識を強調した限りで西洋のプロテスタントに比較され得る」と言っていますし、スイスの神学者カール・バルト(1886~1968)は親鸞の教えを「真の宗教」であるとしました。さらにドイツの宗教学者フリードリヒ・ハイラー(1892~1967)は、親鸞の信仰について、「仏教のヴェールにおおわれた本物のルター主義である」とまで言い、「日本の仏教学の教授は弟子達にルターは「西洋の親鸞」であるからドイツへ行ってルターを研究すべきであるとすすめている」と指摘しています。
私も親鸞を研究していました若い頃、指導教授にルターの研究を勧められ、コツコツと彼の作品を読み始め、二人の共通性に気づきました。その後も研究を進め、43歳のとき『親鸞とルター―信仰の宗教学的考察―』(早稲田大学出版部)という本を出版しました。もう三十年近くたちますが、今でも親鸞とルターを比較研究してよかった、ルターを研究したことによって親鸞研究も深まったのだと思っています。
時代や場所が違っても、同じ人間であることに変わりはありません。深いところに至ればどんな人間にも、どのような宗教にも、どこか共通性があります。これこそが人間の内面の深いところにある尊いものであるし、表面的な違いを超えて世界の諸宗教が手をつなぐべき絆となるものだと思っております。さらには世界平和に向かって宗教が貢献する重要な要素となるものだと考えております。
そこで今回は、まず二人の人物像を簡単に紹介し、どこに共通点があるのか、どのようにこれから連載を続けるかについて書きしるさせていただこうと思います。
親鸞は承安3(1173)年、京都の日野の里(現・京都市伏見区)に生まれました。父は皇太后宮に仕える大進という地位にあった日野有範、母は吉光女でした。
九歳のとき、青蓮院の慈円のもとで出家、比叡山で20年間修行に励みますが、どうしても心の安定を得ることができませんでした。そこで建仁元(1201)年京都の六角堂(頂法寺)に籠り、必死に自分の行く末を観音菩薩にたずねますが、法然のもとに行けとの暗示のこもった夢告を受け、法然の門弟となります。
法然に阿弥陀如来の本願について説かれ、地獄におちて当然であると思っていた自分こそが如来の救いの対象であったと気づかされ、深い回心に至ります。法然のもとにいた6年間は幸せな時期でした。ところが承元元(07)年、念仏禁止の院宣によって法然とともに流罪となり、親鸞は越後に流されることになります。
しかしこの越後で深い内省の生活に入り、本願の真意を追究、いよいよ信仰を深め、非僧非俗の生活態度を樹立します。結婚もこの地であったといわれます。
建暦元(11)年、39歳のとき赦免されますが、法然の死を知った親鸞は、しばらくして42歳のとき、妻子とともに常陸に移ります。稲田の草庵(のちに西念寺が建立される)に住み、教化のかたわら生涯をかけての著作『教行信証』執筆に没頭します。庶民と生活を共にしながら、庶民の目から如来の心に触れ、絶対他力の信心を深めていきました。
文暦元(34)年頃、京都に帰った親鸞は、『教行信証』を完成させ、その後『三帖和讃』『唯信鈔文意』などを次々に著わし、弘長2(62)年、90歳で往生します。
次にルター(Luther,Martin)は、1483年ドイツ、ザクセンのアイスレーベンで農民の血を引く鉱夫の父ハンスと母マルガレーテの間に生まれます。父は苦労して当時ドイツで最も評判の高かったエルフルト大学に彼を入れますが、1505年、21歳のルターは、帰省していた実家から大学に戻る途中、落雷に遇い、恐れおののき、エルフルトの修道院に入ってしまいます。人並み以上に真面目に修行しますが、どうしても自己愛を捨てることができず、修行すればするほど挫折感を深めることになります。自己愛に縛られていると感じる彼は善きわざも行なえず、純粋な信仰ももてず、いよいよ苦しむことになったのです。
しかし7、8年たった1512年から13年頃、彼はヴィッテンベルクの修道院の一室で聖書を読んでいたとき、回心に至ります。それまでイエス・キリストはきびしくルターを責めていると思っていましたが、実はそのルターのためにイエスが十字架にかかって苦しんでくださったのだと気づいたのです。このイエスの苦しみと、ルターのためにイエスをそうさせた神の愛に気づいたのです。長年の苦しみは一気に消え去ります。しかしこの回心は、従来のローマ教会のあり方に多くの疑問をもたせることになりました。
その疑問の代表的なものは、ローマ教会の贖宥券(免罪符)発行で、これに疑問を感じた彼は17年、「九十五カ条提題」を発表します。信仰は神から与えられるのであって、自己が形成するものではないとする彼は、ローマ教会、教皇に対して、これ以後多くの論争をすることになります。21年にはついにローマ教会から破門され、ヴァルトブルク城にかくまわれますが、ここでギリシア語の新約聖書をドイツ語に翻訳しました。
ヴィッテンベルクの騒乱や農民戦争では内面的な信仰を重視し、次第に急進派に距離をおくようになります。25年には結婚もしました。
その後、46年に63歳で没するまで、教会の組織化に努めます。また彼は神学の基礎を教会や教皇の権威ではなく聖書におき、いわゆる聖職者を認めませんでした。万人祭司主義を主張し、善きわざを必要としない「信仰のみ」(sola fide)の立場を貫きました。
このような二人の生き方を考えてみますと、その中に次のような五段階を通して信仰を得、深めていく過程があることに気づきます。次回から、順次解説させていただきます。
第一段階…かけがえのない自分を大切にし、自分と向き合う
第二段階…挫折を知り、大いなるもの(仏や神)に出会う
第三段階…大いなるものの思いやりや働きかけに気づく
第四段階…大いなるものを信じる喜びを得る
第五段階…喜びを正しく人に伝える