【連載・世界の三大宗教を学ぶ (5)ムハンマドの生涯】
イスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)は、西暦570年頃、アラビア半島の町メッカに生まれます。クライシュ族のハーシム家に生まれましたが、幼児のときに孤児となり、叔父のもとで養育されました。
留意しておきたい点は、普通の両親から普通の子として生まれた点です。イエスのように聖霊によって処女マリアから神の子として生まれたというのではありません。この点では、仏教の開祖釈迦と共通します。のちにムハンマドはキリスト教がイエスを神の子としたことを非難することになります。
やがて成長した彼は、隊商に加わり、25歳の頃にはメッカの裕福な女性商人ハディージャと結婚し、生活の安定を得ます。この頃からメッカの郊外にあるヒラー山の洞窟の中で、折にふれ瞑想にふけるようになりました。
610年、40歳の頃、突然彼はアッラーの啓示を受けることになりました。「起きて、警告せよ」(『コーラン』74章2)という神の命令を聞いたのです。このとき、自分が神の使徒であるという自覚をもちました。啓示の内容は、堕落した社会に終末が迫っていること、偶像崇拝をやめアッラーのみを信ずべきこと、利己主義をやめ弱者や貧者を助けるべきことなどが中心でした。
最初、妻のハディージャが、続いて彼のいとこや友人たちがこの教えに帰依します。主として若者たちがこの教えに共感し、信じることになったのです。
しかし当時のメッカを考えてみますと、ここにはすでにカーバ神殿があり、アラブ人たちの祖先伝来の神々をまつり、メッカの有力部族クライシュ族がその祭祀権をもっていました。血縁によって結びついた部族はそれぞれの神をもち、クライシュ族にはクライシュ族の神がいました。このような中でムハンマドは唯一の神アッラーの教えを説いたのです。現世の繁栄をもたらす部族の神に対し、部族の枠を超え終末と来世の救いを強調する神を説くことは、当然のことながらきびしい対立を生むことになります。クライシュ族の保守的な人々は彼をはげしく迫害しました。
615年には、彼は83人の信徒を一時アビシニアというところに避難させました。
619年、彼のよき理解者であった妻のハディージャと叔父アブー・ターリブが相次いで亡くなりました。ムハンマドは次第にメッカの町で孤立し、迫害はいよいよはげしさを増しました。
ついに622年、彼らはメッカ北方480 キロのヤスリブ(のちのメディナ)に移住することになりました。この移住をヒジュラといいます。この苦難の年をイスラム暦の元年とすることにしたのです。この町で彼らはイスラム教団国家(ウンマ)の建設を準備することになります。移住した当時は70余人の信徒とその家族だけの集まりでしたが、彼の死までの11年ほどの間にメディナのアラブ人はほぼ全員が信徒になりました。
この間、3度にわたってメッカのクライシュ族と戦い、ついに630年、メッカを征服することになりました。カーバ神殿の偶像をすべて否定し、イスラム教の聖所とし、メッカを聖地とすることになったのです。
メッカのクライシュ族の人々は、これを契機にイスラム教徒になります。またアラビア半島のほぼ全体にイスラム教の影響力が浸透し、遊牧民族たちもムハンマドと盟約を結び、教えを受け入れていきました。
現世に執着することをよしとしなかったムハンマドは、最後まで清貧の生活に甘んじ、632年、彼としては最後のメッカ巡礼をし、メディナに帰ってまもなく亡くなりました。復活したというイエスとは違って、ムハンマドは普通の人として亡くなったのです。預言者ではあったのですが、神の子という特別の存在ではありませんでした。ここにキリスト教とイスラム教の決定的な違いの一つがあります。
また普通の人間として亡くなったという点では釈迦と共通するのですが、ムハンマドは預言者として神の啓示を受け、それを説いたのに対し、釈迦は啓示ではなく、みずから瞑想することによって悟った真理を人に説いたのです。
このように三大宗教にはそれぞれ立場の違いがあるのですが、ではイスラム教の教えはどのようなところに特徴があるのでしょうか、この点については次回に述べてみたいと思いますが、ここで少し触れておきたいことがあります。日本人はこのイスラム教について誤解をしていることが多いので、その二、三について確認しておきます。
①
まず男は4人まで妻をもつということについての誤解ですが、たしかに『コーラン』には「二人なり三人なり、あるいは四人なり娶(めと)れ」(4章3)とは記されていますが、これは男の勝手な欲望のためではありません。当時戦争のために孤児が沢山生じ、その生活を保護するため、孤児たちの母親つまり未亡人たちとの結婚を勧めたことが根本的な理由なのです。つまり一夫多妻は慈善的な意図のもとに生まれたのです。ですから「妻を公平にあつかいかねることを心配するなら、一人だけを」(同)娶れとも記されているのです。
②
次にヴェールについてですが、女性の美しい体を夫や子ども以外には見せないよう、つつましく生きなさいという意味の上に立つものでした。男女が同様に振る舞うのが平等であるという男女観と違い、男と女は別のものであるから別の良さを守ろうとするものでもあるのです。そのほうが男のためにも女のためにも良いという判断に基づいているわけです。さらに、もともとヴェールには砂漠の砂やほこりを防ぐ役目もあったということを忘れてはなりません。砂嵐の猛威は想像を絶するものがあります。女性の肌を守るには、どうしても必要なものでもあったのです。
③
またイスラム教徒は聖戦(ジハード)を主張し、好戦的であるという誤解についてですが、『コーラン』には次のような記述があります。「神の道のために、おまえたちに敵する者と戦え。しかし、度を越して挑(いど)んではならない。神は度を越す者を愛したまわない。……迫害がなくなるまで、彼らと戦え。しかし、彼らがやめたならば、無法者にたいしては別として、敵意は無用である」(2章190~193)。 いたずらに殺戮を命じているのではないし、このような記述はイスラム教に対する迫害のはげしい頃のものです。のちに安定期に入ると人命尊重が強く主張されるようになりました。当時よく行われた女の赤ん坊の間引きなどもきびしく禁じられました。「正当な理由がないかぎり、人を殺してはならない。それは神が禁じたもうたこと」(17章33)であるとされています。好戦的だとか野蛮だというイメージは、多分に中世になって誹謗中傷のために流されたデマによって植えつけられたものです。それがそのまま明治になって日本に伝わり、無批判に受け入れた結果、そう受け取られるようになってしまったのです。
このような先入観を払拭しながら、次回はイスラム教の教えについて学んでみます。