【連載・世界の三大宗教を学ぶ (2)仏教の教えとその特徴】
先回は仏教の開祖釈迦の生涯について学びましたので、今回は彼が説いた教えの主なもの、⑴中道(ちゅうどう)、⑵縁起(えんぎ)、⑶四諦(したい)、⑷八正道(はっしょうどう)について学んでみましょう。
(1)中道
出家した釈迦はセーナーニ村ではげしい苦行を重ねました。肋骨が浮き上がるほどの断食もしましたが、このような苦行は疲労と苦痛を与えるだけで、心の平安は与えませんでした。しかしこの結果が、いわゆる「中道」の教えになったのです。極端に走ることは正しい思惟や判断をもたらさず、いよいよ迷いを深めていくことにしかならないという教えです。彼は、次のように説いています。
「修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。その二つとは何であるか? 一つはもろもろの欲望において欲楽に耽(ふけ)ることであって、下劣・野卑で凡愚の行ないであり、高尚ならず、ためにならぬものであり、他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである」
と。こうして彼は、中道を歩み、冷静かつ理論的に考える態度を生涯つらぬきました。
(2)縁起
苦行をやめ、菩提樹の下に座って静かに考え続けた結果、釈迦が発見したのは「縁起」ということでした。縁起とは「縁(よ)って起(お)こる」ということであり、何ものも他のものに依存して生起するのであって、まったく独立して存在するものはないということです。彼は六年間苦行する間、「私が、私が」と意地をはり、自分の力で何とか人間の苦から脱出しようとしていましたが、それはかないませんでした。しかしこの「私」とは一体何なのかという問いに立ち帰り、冷静に考え直した結果、実はこの私はさまざまな縁によって生かされている存在なのだと気づいたのです。彼の言葉に「これがあるゆえに、かれがあり、これがないときには、かれはない。これが生じるが故に、かれあり。これが滅するがゆえに、かれ滅す」というものがありますが、すべてのものは他のものと互いに関係し合ってはじめて存在するということを悟り、我意識、我欲に執着することを愚かなことと考えるに至ったのです。
さらに彼は、この縁起の理論によって人間の苦しみの根源を追究し、苦の根本原因は人間の無知(無明(むみょう))によって起こり、無知であるために迷い、迷って何かに執着し、ますます迷いを深め、苦しみを深めていくのだと考えました。そこでこの縁起の理論を正しく理解し、世界の実相を見きわめ、苦しみから脱出する理論と実践法を考え出し、これを人々に教えるため、四諦、八正道などの教えを説くことになりました。
(3)四諦
四諦とは、四つの真理ということで、「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」を指します。
まず苦諦とは、人生は本質的には苦であり、生きるということは苦の連続であるという真理です。具体的にいえば、私たちは日常「四苦八苦」といいますが、このうちの四苦は「生苦(しょうく/この世に生まれ、苦しい人生を生きねばならない苦しみ)」、「老苦(ろうく/老いていかねばならない苦しみ)」、「病苦(びょうく/病にかかり苦しまねばならない苦しみ)」、「死苦(しく/必ず死なねばならない苦しみ)」のことです。この四苦に、さらに「愛別離苦(あいべつりく/愛する者と別れねばならない苦しみ)」「怨憎会苦(おんぞうえく/憎い人と会わねばならない苦しみ)」「求不得苦(ぐふとく/求めるものが得られない苦しみ)」「五蘊盛苦(ごうんじょうく/人間の心身を構成する五つの要素が盛んなために起こる苦しみ)」の四つを加えたものを八苦というのです。誰もがこのような苦しみに取り囲まれているという真理を苦諦と表現したのです。
次に集諦とは、このような苦の原因を追究した結果、その苦しみを引き起こしているのは老いたくない、病みたくない、いつまでも生きていたいという執着心、つまり人間の欲望にほかならないという真理を指します。
次に滅諦とは、そのような苦の原因である欲望を滅ぼせば、苦もまた滅ぼすことができるという真理です。
最後に道諦とは、苦を滅ぼすためには八つの道があるという真理をいいます。この八つの道を八正道というのです。
要するに四諦とは、人生は苦でありその苦は欲望によって起こるから、これを消滅すれば苦は去り、安らかに生きることができるということです。このためには八つの修行である八正道を実践しなさいと教えるのです。ではその八正道とはどんなものでしょうか。
(4)八正道とは、
① 正見(しょうけん)…正しい見方をもつ
② 正思(しょうし)…正しい考え、意思をもつ
③ 正語(しょうご)…嘘偽りのない言葉を話す
④ 正業(しょうごう)…正しい行為をする
⑤ 正命(しょうみょう)…正しい生活を営む
⑥ 正精進(しょうしょうじん)…悟りに向かい努力を怠らない
⑦ 正念(しょうねん)…心を落ち着かせ、集中する
⑧ 正定(しょうじょう)…瞑想によって精神統一をはかる、
の八つの正しい道のことです。
この中で、基本となるのは「正見」です。ものごとはすべて縁によって起こり、変化してやまないこと、つまり無常であることを認め、自分の欲望に引きずられてものを見るのではなく、我欲にとらわれず、ありのままにものを見ることが必要とされるからです。「正見」を理解し実践したら、次は物事の道理を正しく考える「正思」の段階へ進みます。続いて嘘や陰口、悪口をいわない「正語」、盗みや殺しをせずに正しく行動する「正業」、さらに正しい生活を送る「正命」へと進んでいきます。しかし悪いことを避けるだけでは十分ではありません。人間形成のために努力することも必要であり、それが「正精進」の段階です。次に邪念をもたず心を落ち着かせ、正しく心を集中させる「正念」、最後に瞑想によって精神統一をする「正定」を実践していくのです。このような修行によりいろいろな智恵に恵まれ、苦しみから解放され、安らかな境地に生きることができると説くのです。
さて以上、釈迦の説いた教えの一部を見てきましたが、冷静に理論的に考えられた教えに従って、迷いから解き放たれることを目的とし実践するところに仏教の特徴があるとお気づきになったと思います。ひたすら神を信じ救いを求めるという、救済を特徴とするキリスト教やイスラム教とは違う、とお感じになったと思います。
また同時に、このような教えに従って八正道などの修行をするのは容易ではないともお感じになったことと思います。もっともなことです。このような教えは主として出家者、あるいは能力に恵まれた在家者のために説かれたものですから。釈迦はこのような人々だけでなく、このような修行をする能力も時間的な余裕ももたない人々にも教えを説いたのです。たとえば仏を信じ、念仏するだけで安らかな境地に至るという浄土教の教えなどがそうです。法然や親鸞はこのような面から釈迦の教えに近づいたのです。仏教をこのような面から見ていくとキリスト教やイスラム教と通じる点もあるのです。この点については別の機会に触れてみたいと思います。