先回まで、まず5回にわたり「親鸞と現代の諸問題」について、次に6回にわたって「親鸞とルター」について、合計11回連載させていただきました。
今回から、新しく「世界の三大宗教を学ぶ」というテーマで6回にわたって連載を始めさせていただきます。
現代の世界情勢を見ますと宗教の関係した紛争、戦争が各地でおこっています。したがって世界の動きを読み解くためには、どうしても宗教についての知識が必要になります。そこで二か月に一度のペースで、世界の三大宗教といわれる仏教・キリスト教・イスラム教の勉強をしたいと思います。具体的には、 (1)釈迦の生涯、 (2)仏教の教えとその特徴、 (3)イエスの生涯、 (4)キリスト教の教えとその特徴、 (5)ムハンマドの生涯、 (6)イスラム教の教えとその特徴、の順に解説させていただきます。ご愛読いただけますよう、お願い申し上げます。
【連載・世界の三大宗教を学ぶ (1)釈迦の生涯】
仏教の開祖となった釈迦(B.C.463~383頃、同566~486頃などの説がある)は、インド・ネパール国境沿いの釈迦族の小さな国の王子として生まれました。釈迦族は政治的にも経済的にも強い存在ではありませんでしたが、ラージャ(王)と呼ばれる最高統率者を中心に、共和制を維持していました。このラージャであったシュッドーダナ(浄飯王/じょうぼんのう)を父に、妃マーヤー(摩耶/まや)を母として生まれます。ゴータマが姓、シッダールタが名でした。
この釈迦生誕について、少し注意しておきたいことがあります。それは彼が普通の男性と女性の間に生まれたということです。キリスト教の開祖イエスは聖霊により処女マリアがみごもって生んだとされますが、釈迦は人間から人間の子として生まれたのです。たしかに白い象が体内に入った夢を見てマーヤーがみごもったとか、お産のための里帰り途中、ルンビニーの園で彼女の右わきから生まれ、ただちに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったとされていますが、それらは後世の人々の尊敬の念から出た伝説です。仏教の考え方によれば、そのようなことは認められないからです。しかしイエスの母が聖霊によってみごもったとされることは、超自然的なキリスト教の考え方と深く関係します。仏教は奇跡的なこと、非科学的なことは認めません。このことをまず留意しておくことが必要です。
マーヤーは釈迦を生んだ七日後に、産褥熱(さんじょくねつ)ためにこの世を去りました。このことは後に釈迦の心に深い影響を与えたことと思われますが、王は彼を王にするため、大切に育て、学問も武芸も身につけさせます。何不自由なく育てたつもりでいたのですが、敏感で繊細な心の持ち主であった釈迦は、やがて現実世界の苦悩に気づきはじめます。「四門出遊(しもんしゅつゆう)」というエピソードが残っています。これによると、ある時、城の東門から出ると老人に出会い、次に南門から出ると病人に、そして西門から出ると死者の葬列に出会い、人生の無常の姿に心を動かされたと言われています。さらに北門を出ると出家者に出会い、その姿を見て、自分の進むべき道を見出したというのです。当時の釈迦の心境を象徴的に表していると言えましょう。老病死に苦しむ人々を救うためには、王ではなく求道者、出家者となるほかない、そんな思いが次第に強くなっていきます。
しかし父の意志も尊重しなければなりませんでした。当時の風習にしたがって、彼は16歳でヤショーダラーと結婚し、のちに男子ラーフラ(羅睺羅/らごら)をもうけます。しかし求道の思いは断ちがたく、29歳の時、ついに出家を断行します。
城を出た釈迦は、さまざまな師に会い、学び、修行しますが、どうしても納得できる結果が出ません。そこで彼はガンジスの支流ナイランジャナー河(尼連禅河/にれんぜんが)河畔のマガダ国セーナーニ村で苦行をはじめます。そこにはあらゆる難行苦行を重ね、いわば超能力や神通力を得ようとする人々がいましたが、その中に身を投じ、肋骨が浮き上がるほどの断食もしました。しかし苦行は疲労と苦痛を与えるだけで心の平安は得られませんでした。遂に彼は苦行を放棄します。
気を取り戻した彼は、河で身を浄め、肉体を回復させ、今度はブッダガヤの菩提樹の下に座り、瞑想し、思索にふけりました。そして妄想や疑惑と戦いながら、やがて35歳の時、悟りに到達します。これを成道(じょうどう)と言います。この時はじめて彼は仏陀(ブッダ、仏、覚者)になったのですが、イエスやムハンマドのように啓示を受けるのではなく、みずから瞑想し思索して真理を見出したのです。つまり神から真理を啓示されるのではなく、悟り、体得したのです。ここに仏
教の重要なポイントがあります。その
内容については次回に述べます。
さて悟りを得て仏陀となった釈迦は、人々に説法するため旅に出ます。最初の説法は初転法輪(しょてんほうりん)言われ、サールナートというところで行われました。そののち、請われるままに説法をします。やがて当時マガダ国で尊敬されていた拝火バラモンのカーシャパ(迦葉/かしょう)三兄弟とその弟子1000人、懐疑論者サンジャヤの高弟シャーリプトラ(舎利弗/しゃりほ)やマウドガリヤーヤナ(目連/もくれん)たちを教化します。さらに故国から従兄のアーナンダ(阿難)、息子ラーフラなどが弟子として加わります。男の出家者のいわゆる比丘のほか女性の比丘尼、在家の男女信者としての優婆塞・(うばそく)・優婆夷(うばい)の集団もできました。
ガンジス中・下流で説法していた仏陀は、マガダ国のビンビサーラ(頻婆娑羅/びんびしゃら)王の帰依を受け、首都ラージャグリハ(王舎城)郊外に竹林精舎、さらにはコーサラ国の豪商スダッタ(給孤独長者/きっこどくちょうじゃ)の帰依を受け、シラーヴァスティー(舎衛城)に有名な祇園精舎を寄進されました。この両精舎は、夏の雨期に仏陀と弟子たちがとどまって修行する場所でした。
45年間、炎熱のインドを遍歴した仏陀の肉体はさすがに衰えてきました。仏陀自身も死の近いことを自覚しますが、説法の旅をやめようとはしませんでした。ある時、アーナンダに向かって「自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と語りました。仏陀の教えは、あくまでもよりどころとするのは自分であり、その自分を導くのは法(教え)でした。どこまでも冷静に、理論的に考えられた法にしたがって、迷いから解脱しようとするのが仏教の特徴です。キリスト教のヤハウェやイスラム教のアッラーという強力な神の救済を願う宗教とは根本的に違います。よくキリスト教圏で、仏教は宗教ではなく哲学だと言われることがありますが、根拠のないことではありません。
旅の途中、クシナガラの郊外で食中毒のため生涯を閉じることになりました。激しい苦痛の中で仏陀が言った最後の言葉は、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。努力して修行を完成しなさい」というものでした。激痛と戦いながらも、仏陀は静かな入滅を迎えます。近くに住む人々によって火葬にふされますが、何らの奇跡もおこりませんでした。死後復活をしたイエスのような存在とは違います。最後まで人間として生き、最大限の努力をし、人間として亡くなったのです。イエスを「神の子」としてとらえるキリスト教と
は、したがってまったく違う発想に
立っていると言えるでしょう。
以上、釈迦の生涯を見てきましたが、他の宗教の開祖と言われる存在と比較した場合、その特徴は、偉大ではあってもやはり一般の人間として生きた点にあります。イエスやムハンマドのように神から一方的に啓示を受けるのではなく、自分で瞑想、思索した結果得た真理を人々に説いた点にあり、また最期も仏陀として非常に高い境地に立ってはいたが、人間として世を去った点にその特徴があるのです。きわめて自然な生涯であり、奇跡もなく、超自然法的、非科学的な発想にも基づかない存在でした。
次回は、この釈迦が見出し、説いた仏教の内容について述べてみたいと思っております。