【第6回】宿業と自由                               筑波大学名誉教授 伊藤益

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 一般にドイツ観念論哲学の祖とされるイマニュエル・カント。46歳でようやくケーニヒスベルク大学正教授の地位に就いた、この遅咲きの哲学者の代表作の一つに、『実践理性批判』という書があります。この書のなかで、カントは、「実践理性のすべての建造物の礎石は自由の問題である」と言っています。カント哲学において、「実践」とは「道徳」の意と見て、ほぼまちがいありません。ですから、この発言は、カントが、「道徳の根本は自由の問題にある」と語ったことを意味しています。

  要を言えば、自由を前提にしなければ人間の生きかたや振舞いかたの道徳上の善悪は問えないということです。言いかえれば、わたくしどもは、自由に行われた行為に関してのみ、それが道徳の上で正しいか不正かということ、つまり責任を問えるということです。どのような行為であれ、自由な意志に基づいている場合にかぎって、その責任を問題にしうるとカントは言っているわけです。ごく常識的な主張であり、とりたてて説明するまでもないでしょう。だれもが納得できます。

 たとえば、いま、ウクライナやパレスチナで起こっている戦争。当事国および当事組織双方の政治的意図をあえて問わずに、現在の戦闘局面で優勢を保っている側、すなわち、ロシアとイスラエルの指導者に開戦意志があったと仮定してみましょう。その場合、もしロシアの大統領やイスラエルの首相が、それぞれ個人としての自由な意志にもとづいて、自国の軍隊を戦闘へと駆り立てたのだとすれば、大量殺戮という非人道的行為の道義上の責任は、当然彼らにあることになり、彼らは非難を免れえないと申せましょう。ですが、もしも彼らの判断が、「自由」に根ざすものではなしに、情況や時勢の流れのなかでの何らかの必然性にとらわれてのことだったとするならば、政治的にはともあれ、道徳的な面ではその責任を問えないことになります。

 このように、道徳的責任を行為者に対して問うことができるかどうかは、その行為が自由に行われたか否かにかかっています。カントの術語を使うなら、「帰責可能性」の根拠は、一(いつ)に自由のうちにあるということ、つまり、道徳的責任と自由とはわかちがたく結びついている、ということです。

 「自由」という概念が思想や哲学の中心的な問題となったのは、おおむね、アメリカへのヨーロッパからの移住民たちの対英独立戦争や、フランス革命以後のことだと言ってよいでしょう。「個人としての市民」という存在が世界史上に登場したころ、つまり18世紀後半の欧米社会で、その「市民」たちの人権の確立が課題になったときに、「自由」の意義が、それ以前の時代には見られなかった形で、尖鋭化されつつ深刻に問われ始めたのです。したがって、道徳が本源的な意味において思想や哲学の主題となったのは、近代欧米社会でのことだった、と言ってよいでしょう。日本という国は、幕末以後、欧米の思想、文化、文明をほとんど無批判なまでに素直に受容することによって、近代化を遂げた国です。それゆえ、「自由」の概念も、それにもとづく道徳も、日本においては、幕末以後になって、ようやく思想家や批評家たちにとっての思索の対象となりました。いわゆる自由民権運動は、そのことを如実に物語っています。

 幕末以前の日本には、「自由」という概念そのものは、すくなくとも文献の上には存在しませんでした。鎌倉時代以降に書かれた文書には、「自由」という語が散見されます。しかし、それらはどれも、勝手気ままとか、法(のり)からの逸脱といった、負的かつ否定的な意味で用いられています。もちろん、日本は、壬申の乱(672年)の勝者天武天皇が統治権を掌握して以来、一貫して仏法、それも大乗の思想にもとづいて政治が行われてきた国です。江戸幕府の公式の学は儒学、なかんずく朱子学でしたが、それは支配階層たる武家の行為規範にとどまり、衆庶の日常を支える思想基盤がどこまでも大乗の仏法でありつづけたことは否定できません。仏法に根ざした道徳、すなわち「諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)」と言い表わされる「七仏通戒偈」が、幕末に至るまで、日本では基本道徳とされていました。ですが、その庶民道徳とも言うべき基本道徳が説かれる際に、「自由」という概念があらわな形で前面に押し出されることはなかったように見うけられます。

 ただし、或る概念が確立されていなかったことが、そのままただちに、その概念に徴表される意識の非在を確示するとは言いきれません。概念は、かならずことばを以て表出されます。或ることばがないということ。それは、当の言語体系の中にそのことばにもとづく概念が欠けていることを示しはするものの、そのことばに関連する印象的意識が言語体系を構築する人々のあいだになかったことを決定づけるわけではありません。ことばを以て概念化される以前の印象的意識が、論理上に明確化されないまま、いわば確然たる相貌の欠如態のなかで、言語体系の一隅に組みこまれるという事態は、けっして起こりえないことではないのです。「自由」については、幕末以前の日本では概念化はなされていなかったけれども、それに近似する印象的意識はすでに文献上に顕在化していた、と見ることができます。そのもっとも典型的な具体例が、以下に掲げる『歎異抄』第七条の、親鸞に帰せられる言説です。

 

念仏者は、無碍(むげ)の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇(てんじんちぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界・外道も障碍(しょうげ)することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善も及ぶことなきゆゑなり、と云々。

 

 「念仏者」と原本蓮如本にあるのは、実は「念仏は」という意味、つまり「者」は単なる助字ではないのかといったような文献学的問題は、ここでは問いません。諸写本のままに、「念仏者」すなわち念仏の行者という意と見ておくことにいたします。すると、この第七条は、次のように解せられます。「南無阿弥陀仏」をとなえる念仏の行者に対しては何者も邪魔立てすることができない。天(あま)つ神や国つ神も、魔界に棲む者も仏法の枠をはみ出た他(あだ)しき教えを奉ずる者も、だれも念仏者を阻むことは不可能だ。罪悪も念仏者に報いを受けさせることはありえないし、諸々の善も及ぶものではない、と親鸞は語った、という意味であると。すなわち、親鸞にとって、念仏者とは他の何ものにも障(さ)えられずに、いわば、「絶対無碍」とも称すべき境位に在る存在だということです。

 この『歎異抄』第七条の親鸞は、「自由」ということばを使っているわけではありません。ですが、彼の言う絶対無碍は、近現代の哲学・思想において高調される「自由」概念と十分に置換可能です。この条では「自由」が語られていると断定しても、けっして失当ではありません。端的に申せば、親鸞は、「念仏者はどこまでも徹底して自由である」と主張しているのだ、と言えましょう。さしあたって、親鸞が示唆する自由とは、念仏者がみずからの意志にのみもとづいて何もかもを選択しうることだと解しても、大過はないと思われます。ただし、親鸞は、念仏者は何ものによっても妨げられないがゆえに何をしてもいい、などとは考えていなかったはずです。偽なる念仏者、ただ口先だけで念仏している者ならばともかくも、深い信心を如来から与えられたうえで念仏をする「真の念仏者」が他者を傷つけたり殺したりするはずはないし、またそのような害他の振舞いはけっして為されるべきではないのですから。しかしながら、たとえある人が「真の念仏者」であるとしても、その人もまた人間です。人間は、完全に悪と無縁であることができません。すくなくとも、親鸞が自己の悪性について深い自覚を有していたことは、彼の生涯をつぶさに追うこと、あるいは、彼が悪人正機の説をとなえていることによってあきらかである、と言えます。親鸞は、念仏者といえども悪にはしる可能性を持つものだということを、冷静に見定めていたにちがいありません。ならば、念仏者が無碍の一道を行くと主張するとき、親鸞は、念仏者のその自由が、道徳的責任の根拠となることについて無頓着ではなかったものと推察されます。親鸞には、自由に根ざす行為に関して帰責可能性を問うという発想がありえたと言ってよいでしょう。

 こうした観点から親鸞の「自由」の思想をとらえてゆくと、わたくしどもは、ほどなく決定的とも言うべき難問に逢着することになります。『歎異抄』第十三条が披瀝する親鸞の「宿業」論が、一見したところ彼の示唆する念仏者の自由という視点と相反(あいはん)するのではないかという問題が、それです。

 

 

 『歎異抄』第十三条によれば、親鸞はまずこう語ったそうです。卯毛、羊毛の先端にくっついているようなごくごく微細な罪悪も、すべて「宿業」に拠って生起するのだ、と。そして、親鸞はさらに、近侍の門弟だったのであろう唯円にむかって、つぎのように問いかけました。「唯円房よ、おまえさんはわたしの言うことを信じるか」と。唯円は応えました。「もちろんでございます」と。すると、親鸞は、重ねて「ほんとうにわたしの言うことに背かないのだな」と念を押し、唯円が「そのとおりでございます」と応じるのを待って、以下のような一言を発しました。

 

たとへば、人千人殺してんや。しからば、往生は一定(いちじょう)すべし。

 

 人を千人ばかり殺してくれないか、そうすればおまえさんは確実に浄土への往生を遂げられるよ、と言ったのです。いくら敬仰する師の勧めとはいえ、このような驚くべき言説に盲目的に従うわけにはゆかなかったのでしょう。唯円は、「せっかくの仰せではございますが、わたくしめの器量では、千人はおろか、一人(いちにん)といえども殺せるとはとうてい思えません」と応えました。そうすると、親鸞は、「それならば、なぜ、おまえさんはわたしの言うことに背かないなどと言ったのか」と唯円の齟齬を指摘したうえで、こうつづけたそうです。

 

これにて知るべし。何事もこころにまかせたることならば、往生のために千人殺せと言はんに、すなはち殺すべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁(ごうえん)なきによりて、害せざるなり。わがこころの善くて殺さぬにはあらず。また、害せじと思ふとも、百人・千人を殺すこともあるべし。

 

 自分自身の思いどおりに事が運ぶものならば、人を千人殺せと師から命ぜられればそうすることもできよう。だが、唯円よ、おまえさんには、千人どころか一人を殺せる業縁さえもない。それゆえ、おまえさんは殺せはしない。しかし、勘違いしてはならぬぞ。おまえさんは、自分のこころが善きものだから殺せないと思っているのだろうが、実はそうではない。おまえさんには、人を殺す業縁が欠けているというだけのことだ。然るべき業縁が働けば、殺すまいと誓っていても、思わず知らず、百人、千人と殺してしまうというのが、おまえさんという人間の実相にほかならない。親鸞は、そう語っているのです。

 ここで言われている「業縁」とは、宿業と同義です。したがって、親鸞がここで、人間の行為は、善悪の別を問わずすべて宿業のもとに成る、という「宿業原因説」を披瀝していることは、疑いようもありません。親鸞は、『教行信証』などの自著や消息において「宿業」という語を記していない。だから、「宿業」とは親鸞の思想的文脈のなかで重きをなす概念ではない、と主張する浄土真宗の研究者も稀ではありません。しかし、最晩年の親鸞が、関東の門弟たちに対して浄土の教えを理解するための必読の書として掲げた、聖覚の『唯信鈔』には、「宿業」という概念がはっきりと刻みつけられ、かつそれについての説明が施されています。この点を顧慮するに、親鸞が「宿業」ということを強く意識していたことは、とうてい否定しえないと思われます。『歎異抄』が記すように、親鸞は、人間の生きかたや振舞いかたの源に「宿業」を認める考えに立っていたと見るべきでしょう。

では、親鸞の言う宿業とは具体的にどのような事を意味しているのでしょうか。明治末以後に精度を増した浄土真宗の教義学では、それは人間が生まれながらに抱え持つ煩悩のことを指すと解するむきが多かったようです。煩悩にとらわれ、そこから脱却することのできない人間の姿を、親鸞が怜悧に見極めていたのは、否み難い事実だと思います。煩悩に囚われる人間は、たしかに、思うがままに自在に振舞いかつ生きることができないでしょう。けれども、宿業は、煩悩の謂(いい)だけに限定されるわけではないようです。親鸞がそれを「業縁」に置換しようとしていることから推理しますと、彼にとっての宿業とは、人間をその根柢から縛りつける不可避のカルマのごときもの、言いかえれば、人間がそのただなかに据え置かれる時代情況や関係性の謂(いい)ではないか、と思われます。時代情況であれ、関係性であれ、それらは個人の意思によって動かせるものではありません。それらは、因果的必然性として作用しつつ、人間の生全体を統御します。自然界の事象は必然的な法則のもとで生成消滅してゆきます。それと同様に、人事もまた因果の法則に貫かれている。「宿業」という概念に論及する際、親鸞はそう考えていたのではないでしょうか。

 「わがこころの善くて殺さぬにはあらず」。それは、人間の徳性の真髄を射抜く言説です。わたくしどもが悪行にはしらずにすんでいるのは、特段わたくしどもが善き心性を貫いているからだということではないでしょう。たまたま悪行をなす機縁が欠けているからそうはしないだけのことだ、とも考えられます。このように語るとき、親鸞は、万事は宿業によって生起するのであって、わたくしども人間にはそれに抗するすべはない、と言っているのではないでしょうか。ならば、人間の行為は、個々人の意思にもとづく所行ではありえず、したがって、それについての善悪を、ことさらに称賛されたり非難されたりするようなものでもないことになります。とりわけ重要なのは、人間のあらゆる行為が必然性の中で生起するとすれば、人は悪行を行っても、その責任を問われはしない、ということです。人は宿業に抗うことも、そこから逃れることもできません。すると、いかような悪を行おうが、それは個々人の自由な判断とは無関係であり、それゆえそれについては、個人の道徳的責任など問題にもならないという論理が成り立ちます。何を思い、企て、何をなそうとも、それらはみな宿業に根ざした因果必然的態様のうちに取りこまれているのだから、つまるところ無答責だということになってしまいます。

 既述のように、念仏者は無碍の一道を行く者、すなわち絶対的なまでに自由な存在だ、と親鸞は説きました。当然のことですが、自由には責任が伴います。人間は自由である、念仏者はどこまでも自由に振舞うことができると主張するならば、わたくしどもは、その自由とそれにもとづく行為に関して道徳的責任を問わなくてはなりません。にもかかわらず、親鸞は、すべての人間的営みは宿業に拠ると断じているようです。そうすると、親鸞は、人間の営みについて、その道徳的責任性を無視する立場に立っていると考えざるをえません。何をしても特段賞められもせず、同時に何の批判も受けない。とすれば、わたくしどもは、どのように生きていかに振舞おうが、万事勝手放題ということになりはしないでしょうか。ここに、親鸞の宿業論をめぐって、看過できない問題が浮かびあがってまいります。すべてが宿業によって支配されているならば人間にはいっさい自由はなく、逆に、人間が自由だとすれば宿業による支配という思念は成り立たないということ、要は、宿業と自由とは互いにまったく相容れないのではないかということです。親鸞は、この問題を顧慮していなかったのでしょうか。道徳上の帰責可能性をあえて等閑に付するのが、親鸞の真意だったのか。もしそうだとするなら、親鸞は、大乗の根幹たる「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」の思想から逸脱していることになるのではないでしょうか。『歎異抄』が記す親鸞の言説を忠実に追思してゆくと、わたくしどもは、どうしてもそのような難問を回避できなくなります。

 ところで、宿業を、宿命もしくは運命と解することも、あながち失当とは言えません。宿命あるいは運命とは、わたくしどもがそのなかに据え置かれた、動かしえない情況を指します。この、人為を以てしてはいかんともし難い情況によってわたくしどもの人生が決定づけられることは、おそらくだれしもが否定できないところでしょう。たとえば、わたくしは、親鸞や西田幾多郎、田辺元などをめぐるみずからの思索を学生たちにむかって語ることを務めとする哲学教師として生きてまいりました。哲学するために衣食住を確保するには、教師を生業(なりわい)にする以外に手立てがなかったからそうしたまでのことですが、それが可能になったのは、わたくしのごとき庶民階層の生まれの者であっても、読書しつつ物を考え、かつ語り書くことを許される社会情況のもとに置かれていたからにほかなりません。

 もし、わたくしが江戸時代に生まれていたとすれば、どうだったでしょうか。軍事的分権体制のもと、信濃の片隅に、一介の自作農の次男の息子として生まれたわたくしは、耕作すべき田畑もろくに与えられず、生きてゆくための糧(かて)を得ることすら容易ではなかったことでしょう。そんなわたくしは、書を読み先哲に学ぶ機会もなく、無教養であることを余儀なくされて、下手をすれば飢えた野良犬のごとくに野垂れ死にしていたかもしれません。そもそも、哲学とは、日本では明治末に西田幾多郎によって確立された学問で、厳密に言えば、そのようなものは江戸時代には存在しなかったのですから、土台哲学研究者などにはなりえようはずもありませんでした。社会的情況という宿命、もしくは運命を念慮の外に置いて個人の自由などということを高調してみたところで、それがどれほど虚しいことか、わたくしのこの事例はそのことを余す所なく言い尽くしていると思われます。各人の人生は宿業によって定められる。そう断言しても、けっして言いすぎとはならないようにすら見うけられます。

 そうであるかぎり、宿業が人間の生に与える影響の大きさを無視するわけにはまいりません。宿業によって万事が統御され支配されると親鸞が考えていたとしても、彼のその思念を軽く見ることは許されない、むしろ彼は決定的なまでに正しいとさえ言えそうです。しかしながら、ほかならぬ親鸞自身が説くように、人間には他面において自由が保証されています。人が自由に生きかつ振舞いうるならば、その人は、自身の生きかたや振舞いかたに関して、当然のことながら道徳的責任を問われます。ならば、親鸞の宿業論は、道徳上の帰責可能性の問題と無縁ではありえません。それは、帰責可能性への視座をみずからのうちに内含(ないがん)していなくてはならないと考えられます。つまり、親鸞の宿業論を奉ずる場合、わたくしどもは、いっさいは因果必然的に生起するのだから自分たちには何の責任もないなどと主張してはならないということです。

 

 

 ここで、いったん話をカントにもどしましょう。カントの「実践哲学」、すなわち道徳哲学の根柢には、「定言的命法」が据えられています。「定言的命法」とは、「仮言的命法」の対極に位置づけられるものです。「仮言的命法」は、時と処(ところ)と位格に応じてそのつど変化します。それに対して「定言的命法」は、いついかなる場合にも絶対に守られなければならない不変不動の命法です。たとえば、忠や孝、仁や義などを枢要徳として高調する儒教は、それらの枢要徳が、いずれも時と処と位格の変化に呼応して内容的変移を示すという意味において、「仮言的命法」に根ざした道徳論と言ってよいでしょう。わたしの知人で儒教の道徳論を研究する或る人物が、儒教は江戸時代の政治的支配層の学問であって、日本思想研究におけるその重要性は微動だにしない、と口癖のように語っていました。なるほど、たとえ全人口のわずか6パーセントにすぎない武士階層のそのまた一部の人々に愛好されただけだったとはいえ、儒教が軍事的分権支配の理念として、かつてそれなりの意義を担っていたことはたしかでしょう。しかし、「仮言的命法」は、一種の機会論にとどまりますから、それにもとづく道徳論は、絶対厳守を求めえない「ゆるい」原理論にすぎない、と申せましょう。一方、「定言的命法」を基点とする道徳論は、例外規定をまったく認めませんので、きわめて厳しい原理論、すなわち「厳格主義」を表明するものとなってゆきます。

 カントの「定言的命法」とは、つぎのようなものです。

 

汝の意志の格率が、つねに同時に善遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ。

 

 ここで言われる「格率」とは、内面的意志、つまりは、こうしたい、ああしたくないといったような、感情の傾き、カントの言では「感性的傾向性」のことです。その「感性的傾向性」が、あらゆる時と場合に万人に通底する善遍的立法の原理、言いかえれば「道徳法則」と合致することを追い求めるのが、カントの言う「定言的命法」です。要するに、カントは、人間の個々の内面的意志がいつもすでに道徳法則と完全に一致していることを要望しているのです。カントにおいて、意志と道徳法則との間隙(すきま)なき合致は、真の自由を意味しています。正と不正、善と悪、双方に向かう選択可能性は、カントにとって真に自由と名指されるものではないということです。したがって、カントの言う「定言的命法」とは、人間的自由の実現を命ずる命法にほかならないことになります。カントの説く自由は、人間の意志がただ単に束縛から解き放たれているということではなしに、道徳法則に全面的に服していること、つまり意志と道徳法則とのあいだに何らの乖離もない態様の謂(いい)なのです。ですから、カント的自由とは定言的命法の現実における実践そのものであって、道徳的逸脱を絶対的なまでに許さない「厳格主義」の端的な反映であると申せましょう。

 さて、一般に心やさしい宗教的指導者たることを期待されている親鸞、浄土真宗の信徒たちからいまなお衆庶の魂の救い主としての在りようを求められる彼は、カント的な道徳論上の厳格主義などとは本質的に無縁な人物と見られているようです。悪人こそがまさに往生しうる機であり、弥陀如来の本願は悪人のみを摂め取ると説き、慈悲の思想に根ざした博愛主義を高調する親鸞ならば、どのような苛烈な悪虐の主体に対しても、場合によっては凶悪の極なる無差別殺人者に対してさえも救済の手を差し延べるにちがいない、と想像する人々も、けっして少数ではありません。しかし、その想像は、親鸞の思想、ひいてはその大元にある釈尊の仏法を「癒やしの宗教」と見誤ってしまった人々による妄想でしかないと言っても、過言ではありません。親鸞の個人としての性格がどのようなものだったかは、判然としません。ですが、彼の思想は、現在の研究者たちや信徒たちが想像しているよりも、はるかに厳密にして厳格なものです。そうでなければ、『教行信証』方便化身土巻の親鸞が「主上臣下法に背き義に違」しとまで述べて、天皇とその臣下の道義的逸脱行為を激しく非難することはなかったでしょう。親鸞は、カントと同様に、否、カント以上に厳格主義者でした。そのことは、『歎異抄』第十三条の上述のごとき唯円との問答を、さらにいっそう厳密に読み解くことによってあきらかにすることができます。

 問答は、ことばのただなかで、すなわち「ことばにおいて」こそ成り立ちます。それゆえ、「ことばとは何か」という根源的な問題を一考しておく必要があります。心理主義的言語論が、脳科学という実証的明証性を欠落させた擬似科学と結びついて喧伝される今日、ことばは、ともすれば人間の想いや考えを言い表わすための道具的手段ととらえられがちです。こうした道具的言語論は、フンボルト以来の言語発生論を前提として成り立っています。いわく、人間は自身の思念を他者に伝えるための手段としてことばを発明した、それゆえ、ことばは思考とその伝達の道具なのだ、ということです。ですが、こうした言語論は根本的にまちがっています。なぜなら、他者に伝えるべき想いや考えそのものが、実はことばを前提としないかぎり成り立ちうるはずもないからです。まず想いや考えがあってそれらをいかにことば化するかが問題となってくるといったような事態は、人類史のいかなる局面にも起こりませんでした。ことばなき思念はありえないからです。したがって、ことばは、すくなくとも思念の成立と同時的に存在していた、否、むしろ、ことばのただなかで思念が生まれた、と考えなくてはなりません。「はじめにことばありき」という新約聖書ヨハネ福音書の冒頭句は、決定的なまでに正しいのです。要するに、心理主義的言語論が説く、ことばは想いや考えを成り立たせ伝える道具だという見解は誤っており、ことばとは、そこにおいて人間の思念や思索が生み出される原拠としての「根源場」にほかならないと解さなくてはなりません。人間はことばを使って想いかつ考えるのではなく、「ことばにおいて」想いかつ考えるのです。それゆえ、ことばのただなかで成る問答も、ことばを使っての問答ではありえないと言うべきです。問答とは、人間が自己の在ることについての自覚、すなわち「実存」のすべてを賭して行う、いわば命懸けの営みと考えるべきでしょう。『歎異抄』第十三条に記された親鸞と唯円との問答も、例外ではありません。そこでは、親鸞はことばのただなかにおいて自己の全実存を賭けて問いを発し、唯円もまた己れの実存に立って応じている、と見るべきです。

 したがって、「千人を殺せば往生が決定(けつじょう)するとの仰せではありますが、わたくしには一人(いちにん)といえども殺せません」と応える唯円にむかって、「おまえさんが人を殺せないのは、おまえさんの心が善きものだからではないぞ、ただおまえさんに人を殺すような宿業がないだけのことだ」と親鸞が語るとき、その場合の「宿業」が唯円の個的実存を離れた地点で、いわば万人にまつわりつく因果必然性として一般化されているなどとは、とうてい考えられません。業縁、すなわち宿業がもよおせば、殺すまいと誓っても百人、千人を殺してしまうものだという親鸞の言説は、みんなの宿業がそのようになっているという意味ではなく、唯円よ、おまえさんの宿業はそうしたものにほかならないということなのです。すなわち、親鸞の言う「宿業」とは人間全般を包みこむ普遍性のあらわれなどではなくて、唯円なら唯円の、あるいは親鸞ならば親鸞自身の、たった一人でわが身に担うべき因果必然的定めだったということです。宿業とはあくまでも「個的宿業」にほかならない。そういう認識のもとに、親鸞は、唯円よ、おまえさんは、その宿業に根ざす行為に関しておまえさん自身で道義上の責任を負うべきである、と述べているのです。もとより、それは、唯円が絶対無碍の念仏者、すなわち行為の選択可能性を徹底的に保証された自由人であるからです。

 ここに、カントの実践哲学が説くのと同等もしくはそれ以上に苛烈な厳格主義が顔をのぞかせていることは、疑いえないところです。宿業に基づくのだから致し方はなく、何もかもが許されていると考えるような、甘く感傷的な態度と、親鸞はどこまでも無縁だったと言うべきでしょう。よくよく考えてみると、親鸞の厳格主義者としての在りようは、カントをも超えた、洋の東西に比類なきものだと断言してもけっして過言ではありません。宿業は人為を以てしては動かせません。その微動だにしない必然の定めを己れの責として負え、と親鸞は言っているのですから。一般に哲学史上における厳格主義の代表者と目されるカントは、自身が説く「自由」の実現可能性について、実は疑問符を打っています。それゆえ、カントはどこまでも厳格主義を貫き通しているとは言いきれません。

 カントは、『実践理性批判』のなかで、意志と道徳法則との完全なる合致としての自由は、人間にとってそれを達成することが保証されない一つの「課題」である、と述べています。カントの言うには、人間には、道徳法則を志向する意志のほかに正と不正、善と悪の双方へと向かう「恣意」が備わっています。そうした恣意を有するがゆえに、感性的世界の住人にとどまり、純然たる理性者としては生きられない人間は、いつもすでに自由を現実化させていることが叶わない、とカントは考えるのです。恣意を保たざるをえない人間という存在者にとって、意志と道徳法則との完全なる合致としての自由は、在りのままの現実においては、実現されえない理想としての「課題」にとどまる、ということです。もちろん、カントは理想への志向性を捨て去るわけではありません。彼は理想を範として生きること、言いかえれば、理想をめがけて多少なりとも現実を変えてゆくことをめざします。カントは説きます。自由については、意志と道徳法則との合致へとむかう、精神の無限の進行過程において、その実現可能性が仄見えてくる、と。ただし、そのような「無限の進行過程」が成り立つには、ある条件を欠かすことができないとカントは言います。その条件とは、進行過程の主体たる人間の魂が不死であらねばならないこと、そして、その魂の不死を可能ならしめるために神の存在を前提としなければならないということです。カントは、彼以前の西洋の哲学者たちとはちがって、神を無条件に信じるわけではありません。彼にとって神とは、理性の要請の範囲内での存在、すなわち理性の限界内に定位される存在だと申せましょう。ですが、カントもキリスト教の伝統と無縁であることはできませんでした。神の絶対有(う)としての超越性を、カントは否定していません。カントは、超越的絶対有(う)としての神を求めるがゆえに、人間による意志実現の可能性に限界性を画定してしまっています。カントの厳格主義は、その点でいわば一種の甘さを抱え込んでいるのです。これに対して、親鸞は、超越的絶対有(う)の存在をまったく求めません。そこに、彼の厳格主義が、カントのそれよりもなおいっそうきわだつ理由があります。

 親鸞は、弥陀如来の摂取不捨の願に与かって、わたくしども凡夫が浄土に往生させていただく、と説きます。一見すると、この言説をとおして、弥陀如来が超越的絶対者として措定されているかのように見えます。明治後期に真宗改革運動を主導した教義学者のなかには、実際にそのような解釈を採り、時には弥陀如来を超越的無限と名指すことすらあったと仄聞しています。そうすると、親鸞の思想は、キリスト教とほぼ同様の構造を持つことになってしまいます。全智全能にして最善なる唯一神が愛によって弱き者、貧しき者を救うというのがキリスト教の根幹をなす思想ですが、親鸞思想もこれと同一の考えかたに立つように見えてしまいます。明治の教義学者たちの多くは、キリスト教を範型とする西欧宗教学の枠組みを前提として親鸞の教説を解釈しようと企図しました。それゆえ、弥陀如来をも、彼らは超越的絶対性のなかに絶対有(う)として措定してしまったということなのでしょう。そもそも、親鸞の依拠する仏法を、キリスト教やユダヤ教、あるいはイスラム教などと類を同じくする「宗教」ととらえること自体に無理がある、とわたくしは想うのですが、この点について詳述するのは別の機会に譲ります。

 大切なのは、親鸞が仏弟子を自認する仏法者であったことです。釈尊以来、仏法は、部派と大乗との別を問わず、超越的絶対有(う)を想定しません。確かに、大乗では、大日如来や弥陀如来などが救済に向けて衆生を導く存在としての意義を持つと考えられています。しかし、それらの如来は、いずれもキリスト教やイスラム教の「神」のように絶対性を本質としているわけではありません。大日如来や弥陀如来は、まさに「如来」なのです。人間や世界が生まれ成り立つ以前からすでに独在している有(う)とは異なります。「如来」とは、「如」より「来(らい)」する者の意であり、しかも「如」は「真如(しんにょ)」、すなわち形や量を持つ有(う)とは規定されえない、いわば「絶対の無」です。わたくしが敬愛する真宗大谷派の説法者、蜂屋賢喜代(はちやよしきよ)師は、「真如」を「宇宙の意思」と解しています。妥当な解釈であろうと思います。「宇宙の意思」とは、その基(もとい)となる主体我を持ちませんので、それは有(う)に根ざした働きと言うよりも、むしろ作用性そのものと見るべきでしょう。親鸞は、『教行信証』などの自著において、弥陀如来の本源の在りようを「法性法身(ほっしょうほっしん)」と解しています。法性法身ならば、色も形も量も超えているにちがいありません。法性法身としての弥陀如来は、宇宙の意思そのもの、つまりは純粋作用性としての「妙用(みょうゆう)」の具現以外の何ものでもない、と言うべきでしょう。

 もとより、親鸞が、弥陀如来の誓願、なかんずく、法然の言う「王本願」たる「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」、すなわち第十八願によってわたくしども悪凡夫が救われると説いていることは、多少なりとも親鸞思想に接した人ならばだれしもが否定できないところではあります。けれども、その弥陀如来は、衆生が理想として希求するような「課題」、たとえばカントの求める意志と道徳法則との合致を可能ならしめるような、絶対的権能の所有者たる超越的絶対有(う)などではありえません。わたくしども悪凡夫は、弥陀如来として顕現する「妙用(みょうゆう)」、言いかえれば浄化の純粋作用性に与かって浄められ、「さとり」の境位へと導かれるというのが、親鸞の基本思想であったと考えるべきでしょう。そのような基本思想にもとづいて、親鸞は、浄土への往生はそのままただちに「成仏」、すなわち「覚者(ブッダ)」になることだ、と主張するのです。親鸞の僚友として法然の門下に連なった人々の多くは、凡夫は浄土に往生してのちに修行を積んで漸々に「さとり」に近づくと語っていますが、そのような考えかたは親鸞がけっして認めないところです。ともあれ、親鸞にとっての弥陀如来とは、宿業を、わたくしども人間に対して不可避の定めとして与えたり、あるいは、その定めからわたくしどもを解き放ってくれたりするような、絶対者などではありえません。弥陀如来にキリスト教の神のような絶対的権能を求める姿勢は、浄土の教説、ひいては仏法の論脈からの逸脱と言わざるをえません。報身としての弥陀如来の意志とは無関係に、それ自体としておのずからに生起(しょうき)し流通(るつう)する宿業を己れ自身の固有性ととらえるべきであるがゆえに、わたくしどもは宿業にまつわって全責任を負わなければならず、しかも、そこからわたくしどもを解放する力を他に期待することは虚しい。親鸞の宿業論はまさにそうした論理を呈示するもので、そこにあらわれいづる激越なまでの厳格性は、古今東西に比類のないものと申せましょう。

 

 

 他者の痛苦に、あるいは在ることの根柢に巣食う悲しみにそっと寄り添う浄土真宗の宗祖親鸞。すべてを受け容れ、わたくしども凡夫の悪性にまつわる苦悩や性情の欠陥に由来する貧瞋痴(とんじんち)の迷情を癒やしてくれるどこまでも心やさしき宗教者親鸞、という心象。そのような心象に終始すがりついていたいという希みは、わたくしにも理解できないわけではありません。短調の音階を以て奏でられる哀調を帯びた恩徳讃を門徒のみなさまと唱和するとき、わたくしの情緒と感傷は、それなりに刺激されます。親鸞が人間の情を無視する冷徹な思想家だったとは言いきれないでしょう。最晩年に関東の門弟たちに送った書簡のなかで、親鸞は、しばしば、「お浄土にてお待ち申している」という趣旨の発言に及んでいます。これを読むと、源信の山越しの弥陀如来像などによって示される浄土観、つまり死後に現世とは異なる理想界としての西方極楽浄土に往き生まれるという考えかたにもとづいて、親鸞が門弟や門徒たちの死への不安を和らげようとしていたことがわかります。親鸞には何の情緒性もなかった、彼は論理的平静さにのみ徹しきったと断定するとすれば、それは失当でしかないと言わざるをえません。ですが、心的印象性を超出する地点に定立されるはずの「真の親鸞」が、わたくしどものごく一般的な想像よりもはるかに冷静で厳格な人物だったことも、また否定しえない事実です。

 親鸞は、法然上人のいらっしゃる所であればたとえ地獄であっても付き従うとまで述べて、法然への絶対的随順の意志をあらわにしています。近年は、親鸞の主著『教行信証』を浄土真宗の立教開宗宣言の書と見なす見解が目立ちますが、親鸞には、実は、法然から離れて別途一宗を樹立しようなどという意図は、露ほどもありませんでした。親鸞が「浄土真宗」という宗名を掲げるとき、そこには法然の浄土宗の真実の在りようを示すという意図がこめられているのであって、それを浄土宗とは別異の仏法宗派ととらえるのは、親鸞の真意を見誤ること以外の何ものでもありません。ただし、親鸞の法然への絶対的随順の姿勢は、彼が法然思想の枠内から一歩も出なかったことを意味しているわけではありません。親鸞は、法然思想に従いつつも、それをよりいっそう尖鋭化することをとおして、法然の枠組みを踏み超えてゆきます。そのことを示す典型例が、在来の官製仏教、すなわち顕密仏教に対する親鸞の態度です。

 法然が、あえて朝廷から勅許を得ることなく、浄土宗の立教開宗を宣言する以前、日本の仏法は、三論、成実、法相、華厳、倶舎、律の「南都六宗」に天台、真言を加えた「八宗」に限定されていました。「八宗」はどれもみな官許に基づく官製仏教で、それらは、仏法の教義の研究を主眼としながら、同時に加持祈禱をも旨とするものでした。加持祈禱とは、皇族や公卿、公家の子女たちの無事な出産や、日照りの際の降雨、疫病の退散などを仏僧の霊威を以て実現しようとする宗教的実修です。それは、現世における支配階層の利益(りやく)を追求する営みですから、当然のことですが、当の支配階層がこの国への仏法の移入以前から延々と依拠しつづけてきた神祇信仰と密接に結びついてゆきます。八宗は、神仏習合の風習に染めあげられていたのです。たとえば、平安京の鬼門を宗教的に守護する任を時の政府から委ねられていた天台宗延暦寺。そこを拠点とする僧侶たち、なかんずく大衆(だいしゅ)と呼ばれる人々は、しばしば、日枝神社の御神体を載せた神輿を奉じて洛都に乱入し、世俗政治に武力を以て介入していました。法然が浄土宗を開宗したのは、このような官製仏教の在りように対して疑念をいだいたことが大きな要因です。法然は、念仏ただ一行によって衆庶が救われるというみずからの信条こそが仏法の純粋性をあらわにする、と考えたのです。法然からすれば、官製仏教が事とする加持祈禱は、仏法の純粋性をそこなうもので、それは斥けられるべきものでした。親鸞は、法然の意思を汲み取り、法然以上に激しく加持祈禱の排拒をめざします。

 ところが、官製仏教と袂を分かったはずの浄土宗の開祖法然は、法難によって遠流の刑に処せられるまで、一貫して自身を「天台黒谷沙門源空」と称していました。つまり、法然は、天台教団の戒師としての立場を崩さなかったということです。法然はおそらく新興仏法浄土宗の存立を維持するために、在来の権威とのあいだで妥協を図ったのでしょう。その企図はある程度まで奏功しましたが、それによって、加持祈禱を排するがゆえの神祇不拝の精神が、法然においてはともすれば弱まってゆく傾向にありました。たとえば、法然の代表的な問答集『一百四十五箇条問答』。それによれば、とある人物が神社に参拝してもよいでしょうかと問うたのに対して、法然は、別段さしつかえなし、と答えたといいます。神仏習合の風習に対して、法然は寛容だったと判断せざるをえません。彼は、神祇不拝の精神をどこまでも貫きとおすことができなかったのでしょう。これに対して、法然の思想的直系を自任し、真の浄土宗を堅持することを誓う親鸞は、徹底的に神祇不拝を貫きました。仏法を在来の神祇信仰と完全にわかつこと、すなわち仏法の純粋性の貫徹を親鸞は企図したのです。その企図を端的に示すのが、主著『教行信証』方便化身土巻の、古来の天(あま)つ神や国つ神へのいっさいの拘りを排拒する文脈です。

 親鸞の曾孫覚如の『御伝鈔』には、箱根権現に勤仕する神官とおぼしい人物と親鸞との交流を伝える記述があります。また、親鸞が20年ものあいだ家族とともに暮らした常陸国笠間郡稲田郷の草庵(現、稲田禅房西念寺)の近隣には神社がありました。こうした点を根拠にして、昨今若手の親鸞研究者たちのなかに、親鸞はかならずしも神祇不拝を貫いたわけではなく、神仏習合に一定の理解を示していたのではないか、と説くむきがあります。親鸞研究が、文献学的にも哲学的にも粋を極めつつある現況において、新機軸を打ち出すためにはそうとでも主張せざるをえないのかもしれません。人の耳目を惹く言説を以て研究者としての地歩を築きあげたいといった世俗的願望をいだいてしまう若い研究者たちの焦慮を、嘲笑しようとは思いません。しかし、親鸞を神仏習合の思想の枠内にとどめてしまおうとする彼らの研究態度に、実証的明証性が欠落していることは否みえないと言わざるをえません。そもそも、親鸞から神祇不拝の精神を取り除いてしまうと、彼の思想の独創性が見失われますし、浄土真宗そのものがその存在意義を喪失してしまいます。神祇信仰を取りこんだ官製仏教と妥協する親鸞像を描くと、彼がなぜ「承元の法難」に連座したのかが説明できなくなるばかりか、念仏の呪文化を排するがゆえに息男善鸞の義絶にまで及んだ彼の真意が等閑に付されることにもなりかねません。『教行信証』の方便化身土巻において、親鸞は、神祇信仰のみならず、老荘思想をも徹底的に批判しています。そればかりではありません。大乗ではごく一般的に認められる「魂」の輪廻という考えかたにすら、親鸞は疑義を投じています。つまり、親鸞は、釈尊を原点とする仏法から、すべての夾雑物を除去し、仏法の純粋化を徹底させようと意図しているのです。厳格にして純然たる仏法者としての親鸞像。それを崩そうとする言説に対して、わたくしどもは重々注意を払わなければなりません。

 現存のいくつかの親鸞の肖像画は、いずれも、高くそり立った頬骨の下で細く吊りあがった眼が鋭い光を放つ相貌を描いています。同時代の仏法者、たとえば法然や道元の肖像画が柔和で頬笑みさえも湛える顔貌を示しているのと、およそ対照的です。親鸞の肖像画は、彼がどこまでも甘い感傷とは無縁な人物であったことを物語っているのではないでしょうか。仏法の根幹には「諸行無常」という考えかたがあります。それは、「刹那滅」を前提にし、万物は一刹那に生成と消滅とを繰り返すがゆえに常住ではありえないと説くものです。無常観は元来冷徹な論理に根ざして披瀝されるのです。ところが、それが日本文化のなかに移入されたとき、そこに日本的な湿潤なる感傷が絡みつき、無常観は感傷に沈む無常美感へと変質しました。親鸞は、あえて無常ということに論及しませんでした。それは、本質的に厳格で平静な思想家であった親鸞が、意図的に感傷に浸ることを避けたためではないでしょうか。儚げに散りゆく桜花を眺めて、あるいは、水流に漂う黄葉(もみちば)を見遣りながら美しき無常を感得するような情緒と、親鸞はどこまでも無縁であった、彼は冷静に厳格主義を貫きつづけた、と解するべきであるとわたくしは思います。

 述べてきたように、親鸞は、わたくしどもにむかって、宿業とその結果としての行為の責任を負うことを求めます。ただし、親鸞は、責任主体たる主体我の存続を無条件に認める「有見(うけん)」に立っていたわけではありません。このセミナー全体をとおして、あるいは今回の論考でもいくたびも指摘したように、親鸞は釈尊の教えを奉ずる真の仏法徒です。浄土真宗中興の祖、蓮如が『御一代記聞書』のなかで語っているように、仏法の核心は、「諸法無我」のうちに存しています。親鸞にとって、宿業にもとづく行為の責任を担うべき主体我とは、最終的には無に帰せられるべきものだったにちがいありません。ただし、それが無に帰せられ、「無我」の境位が実現されるのは、理念態としての「真諦(しんたい)」においてのことです。世俗的現実生活、つまり「俗諦(ぞくたい)」のただなかで、わたくしどもは完璧な形をとって「無我」に立ち至ることなどできようはずもありません。親鸞は、そのことを鋭利に見究めていました。それゆえ、彼は、俗諦を生きる人間、わけても念仏者が、自由であるがゆえに免れえない、一つの決定的とも言うべき負的な事態に迫ってゆきます。それは、すなわち、わたくしどもが悪への志向性をいかにしても放ち捨てることができないという事実です。そして、その事実のうちには、人間性の根幹をゆるがす、いわば「深淵の暗影」とも言うべき人間存在の原態様がかがよっています。

 

 

 カントは、『宗教論』のなかで、人間の「根源悪」を浮き彫りにしました。人間には、「意志」のほかに「恣意」が備わっており、それは、善に向かうこともあるものの、悪をも志向します。それゆえに、人間性の根柢には悪がうごめいている、とカントは言うのです。こうした「根源悪」の問題を徹底的に掘り下げたのが、シェリングでした。シェリングには、『人間的自由の本質』という小著があります。そのなかでシェリングは、神の根柢には暗みを帯びた「無底の根拠」があり、そこから人間の自由を可能にする悪が由来すると説いています。人間の理性の根源には、もはや理性では測り知ることのできない「深淵の暗影」があり、そこから不可避の悪が生じる、そして、ともすればその悪を選んでしまう在りようが人間的自由の本質にほかならない、とシェリングは説くのです。シェリングは、人間に理性や自由を与え、人間存在の奥底を規定するキリスト教の神の深奥に悪を認めています。そうであるならば、最善なる神はいっさい悪を志向しないというキリスト教の大前提が崩れ去ることにもなりかねません。シェリングは、カントよりもいっそう厳しいまなざしをキリスト教に向け、その根幹に対して窮極的とも言うべき疑念を投げかけていると解しても、あながち失当ではないでしょう。

 キリスト教の根本には、最善なる神が創造したこの世界には悪など存在するはずもないという考えかたがあります。その考えかたにもとづくがゆえに、アウグスティヌスなどのキリスト教の思想家たちは、悪は「善の欠如」にすぎず、けっして積極的存在ではないと説くのです。しかし、その考えかたは、現実の生活のなかに悪が存在するという事実によって反証されてしまいます。それは、殺人、強盗、詐欺、強姦などの具体的悪を列挙されれば、たちどころに瓦解してしまうのです。人間は理性あるがゆえに悪とは無縁であるなどとは、とうてい言えないのです。ところが、不思議なことに、西洋の哲学的・思想的伝統のなかで、人間的理性への信憑は、微動だにしませんでした。たとえば、シェリングと同時代に、同じくドイツに生きたヘーゲル。彼が編みあげた「弁証法」は、人間的生活の実相たる矛盾的態様を的確に説明することができなかった在来の論理学、すなわちアリストテレスに由来する「形式論理学」を乗り超えるもので、父と子と聖霊の三者が三にしてしかも一(いつ)であるというキリスト教の「三位一体論」を巧みに説明づけています。その意味において、ヘーゲルの「弁証法」は、キリスト教に基盤を置く西洋思想を、史上はじめて論理化したものと申せましょう。キリスト教思想は、ヘーゲルの「弁証法」の登場を待って、ようやく独自の論理に裏づけられた「哲学」になりえた、と言ってよいと思われます。

 ただし、ヘーゲルの「弁証法」においては、「絶対精神」あるいは「絶対知」と名ざされる絶対理性が、思考の運動の原初であると同時にその終末点でもあるとされています。すなわち、ヘーゲルは、「定立→反定立→綜合」という図式であらわされる弁証法の思考過程を、絶対精神(絶対知)たる絶対理性の自己展開の運動ととらえるのです。ヘーゲルにあっては、万事万象が明るい理性の光輝く自転の軌跡を描くと目され、いっさいが理性の合目的性のなかへと摂め取られます。そのことを典型的に表わすのが、『歴史哲学講義』に披瀝されるつぎのような言説です。ヘーゲルはそこで、世界史を絶対理性の自己展開の過程としてとらえつつ、こう言いきっています。東洋的専制政治を始源とする世界史は、ギリシア・ローマの古代民主制を経たのちに、われらがプロイセンの市民社会を以て完成形にまで達した、と。ヘーゲルは、ギリシア以来の思想的伝統に立つ理性への絶対的信頼に根ざして、一点の暗影もない明るみのもとで近代市民社会の卓越した相貌をきわだたせようとしています。ヘーゲルの言説からは、理性にもとづいて生きかつ振舞うかぎり、人類は何らの曇りもない晴ればれとした幸福のうちに包み込まれる、そしてそこには悪の問題が介在する余地など一片だにないという主張が響き渡ってくるように思われます。

 その、ヘーゲル的な明朗このうえもない理性のうちに暗く忍び寄る翳りを見取ったのが、シェリングでした。理性の根柢には、理性を以てしてはとらえきれない悪の影がある。シェリングはそう説いているのです。キリスト教の根幹をゆるがしかねないシェリングの言説は、その後の西洋哲学ではほとんど顧みられませんでした。理性に歪みがあるとか、あるいは、この世界もそれを構成する人間たちも悪のうちにあるなどと説く思想を信奉するとすれば、キリスト教に支えられた哲学は崩壊を余儀なくされますから、シェリングが無視にも等しい扱いを受けるのは、自然のなりゆきだったと申せましょう。しかし、シェリングに類する悪の思想を披瀝することに関して、東洋の哲学、なかんずくその代表とも言うべき仏法は、何の痛痒も覚えませんでした。当然と言えましょう。仏法は、キリスト教のごとくに超越的絶対者を想定しませんし、人間的現実を在りのままに、すなわち「真」として凝視するものなのですから。

 仏法者たる親鸞は、無碍の一道を歩む念仏者、すなわち自由なる念仏行者のうちに、はっきりと悪への志向性をみとめていました。ここでは、親鸞が最晩年にうたった和讃を一つだけ例証としてあげておきましょう。

 

悪性(あくしょう)さらにやめがたし

こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり

修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに

虚仮(こけ)の行とぞなづけたる

 

 親鸞は、みずからが生きた念仏者としての人生を振り返りつつ、こう言っています。蛇や蝎(さそり)のごとき心持ちで生きてきたわたくしは、いかにしても悪しき性(さが)を抑えがたく、それゆえ、善を修めようと試みたところで、それはさまざまな毒にしかならない。善をめざすわたくしの行(ぎょう)なぞ虚仮(こけ)の振舞いとでも言う以外にない、と。ここには、自身が根源悪にとらわれていて、そこから一歩たりとも脱しえないことについての深い自覚が吐露されています。カントやシェリングの根源悪の思想には、どこかしら人事(ひとごと)を語っているような風情があります。彼らは、己れ自身の生きかたや振舞いかたについて、もちろん無自覚であったわけではないでしょうが、それよりもむしろ、人間一般を外側から、いわば客観的に眺めながら根源悪に論及しているように見えるのです。ところが、親鸞は、己れ自身をじっと見据えて、自己自身の心の核にある不可避の悪性を確認しています。根源悪の思想は、カントやシェリングを遡ることおよそ500年以上も前に、すでに仏法者親鸞によって、告白もしくは懺悔という仕方であらわにされていたと断言しても、けっして失当ではないと思われます。

 しかしながら、親鸞は、自身が根源悪を抱えこみながら「いま、ここ」を生きて在る事実に開き直り、そうした己れの在りようを肯定しているわけではありません。もとより、親鸞は、悪人が悪人たるがゆえに救われるという悪人正機説を展開するわけですから、自身が善人に転化せしめられて浄土に往生するなどと考えたはずがありません。根源悪を負って在る、その在りかたを自覚している姿のままでの往生浄土。それによってこそ自分は、語のまったき意味での弥陀の救いに与かる、と彼が信じていたことは疑いのないところです。ですが、それが来世での救済を求めることと同義だったとは考えられません。今回のこの論考でもすでに述べたように、親鸞にとって、弥陀如来とは絶対の無たる真如より来する何か、しいてことばで表わすなら、色や形、量を持たないものであって、そうしたそれ自体もまた無と名ざすべきものが、わたくしどもを現世とは異なる別世界に導くということはありえないからです。しかも、もし、親鸞の願いが別世界としての来世での救いであるとすれば、彼は、「いま、ここ」では救われえないということになってしまいます。「いま、ここ」とは無縁の救済など、絵に描いた餅のように空疎です。

 親鸞にとって、正依の経典は『無量寿経』でした。彼がとりわけ重要視したのは、弥陀の四十八願、なかんずく「至心信楽の願」と呼ばれる第十八願です。心をこめて信心し、往生を願えば弥陀がかならず摂取してくださるであろうという趣旨のこの願(がん)は、その成就を示す文、すなわち願成就文によって保証されます。願成就文には、「即得往生、往不退転」という一文が含まれています。わたくしども凡夫は、弥陀から賜わった信心のもとに念仏すれば、「即」において、つまり「いま、ここ」で往生を遂げ、けっして退転しないということ、すなわち、まさにこの現生に在って弥陀に救い取られるという意味です。『無量寿経』は、現世を生きて在るがままでの往生を説いているのです。親鸞が正依の経典のこの記述に従って、「いま、ここ」で自分は救われると考えていたことは、まちがいありません。けれども、悪逆にして非道な人間がはびこり、濁世という形容がその実態を端的に表わす世界たる現世が、そのままの姿で浄土でもありうると考えることには、当然ながら無理があります。では、「いま、ここ」での往生とは、いったいどのような事態なのでしょうか。

 おそらく、親鸞が、そしてわたくしども悪凡夫が往生を遂げる浄土とは、現世とは別個に定立される一つの「場所」などではないのでしょう。仏法の論脈に沿って論理的に立証するのは次回以後の課題にしたいと思います。とりあえず、ここでは蓋然的な説明を施すにとどめます。すなわち、浄土とは、絶対の無より来し、それ自体もまた無としか言い表わせない弥陀如来の用(はたら)き、つまり浄化の作用性そのものの謂(いい)だ、とわたくしは解します。この解釈に立つならば、親鸞は、根源悪にまみれた己れ自身が「いま、ここ」で浄化作用に与かることを以て、「往生浄土」ととらえていたもの、と考えることができます。宿業に雁字がらめにされながら在りかつ生きざるをえないことそれ自体をみずからの責任として担わなければならない自己が、浄土という名の浄化作用のなかにすっぽりと包まれて在ること。親鸞は、そのようなわたくしどもの在りようをこそ、自由なるがゆえに悪を免れえない人間の救われる姿と見ていたのではないでしょうか。

 ただし、ここでよくよく注意を払っておかなければならないことがあります。浄土の浄化作用を、神祇信仰に言う「はらへ」や「みそぎ」と混同してはならないという点が、それです。罪を「はらへ」によって取り除く、あるいは「けがれ」を「みそぎ」を以て払い除けるといったような発想は、およそ仏法とは無縁のものです。言うまでもなく、仏法の窮極の目標は、「無我」の境位の確定にあります。親鸞が浄土の教説にもとづいて「浄化の妙用(みょうゆう)としての浄土」という視点に立つとき、彼は、根源悪を抱えこみかつは

                                       、、

宿業ゆえの罪悪に関しても責を担わされる自己が、「無我」をみずからの真態としてさと

 、

ることを求めていたと考えるべきでしょう。

 以上を以て、「宿業」と「自由」との関係および両者の相剋をめぐる、親鸞思想に即しての考究は、いちおうの結論を得たと言えるのではないでしょうか。稿を閉じるにあたって、少しだけ、仏法における「さとり」と「救い」の関係について論じておきたいと思います。よく言われるように、「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静」の三法印を「正見」を以てとらえきることに主眼を置く釈尊の仏法は、「覚(さとり)」の教え以外の何ものでもありません。これに対して、大乗の支脈として位置づけられる浄土教は、弥陀如来による、浄土に向けての衆生の救済を志向する「救い」の教えと考えられることが多いようです。ここに、元来は「覚(さとり)」の教法であったはずの仏法を「救い」の教えに転化させてしまう浄土教は、はたして真の仏法と呼べるのか、という難題が生ずるように見えます。しかしながら、この難題は、浄土教への理解が表層的なもの、うわすべりなものにとどまるがゆえに起こる擬似問題にすぎない、とわたくしは考えます。すなわち、親鸞が、そこに自身の思想の根幹を据える浄土教は、実は「救い」の教えなどではないのです。それは、弥陀如来の願力によって悪凡夫を無我についての「さとり」へと導く教法であり、それが窮極の目標とするところは、まさに「覚(さとり)」以外ではない、と申せましょう。

 よくよく考えておかなければならないのは、すでに述べたように、釈尊の仏法は、キリスト教の如くに超越的絶対者を措定するものではないということ、そしてまた浄土教も、そのような「在りて有るもの」を前提にしていないということです。キリスト教では、「神」と名ざされる超越的絶対者がこの世界を創造したとされます。このような創造説によれば、この世界とそのなかに在るすべての事物は、「神の世界計画」のもとに隅々まで支配されていることになります。神から理性を付与された地上の唯一の存在類たる人間も、独自の意志を持たない、神の操り人形でしかありえません。そこに、「神の世界計画」と「人間的自由」とは両立しうるのか、という問いが生まれます。けれども、仏を「覚者」と見なしはするものの、それを超越的絶対者とはとらえない仏法においては、そもそも、そのような問いは生起しようはずもありません。仏法に言う宿業とは、仏の御意(みこころ)の反映などではないのです。たしかに、宿業は因果必然的に働きます。けれども、それは、いわば自然(じねん)のなりゆきとも呼ぶべきものです。そして、その自然(じねん)の態様をも、無碍の一道を行く自由なる念仏者はみずからの責任として担わなければならないと考えるところに、親鸞流の、カントをも超える厳格主義がきわだつのです。くどいようですがもう一度最後に申し述べておきます。親鸞は、人間性の範疇から逸脱するがごとき悪虐無道をも含めてすべてを許容するような、甘く感傷的な人物ではなかった、と。酸いも甘いも心得た、清濁併せ呑む心やさしき宗祖としての親鸞像を念頭に置いているかぎり、親鸞思想の本質を見極めることはできない。わたくしどもは、けっしてそのことを忘れるべきではありません。

(2024年3月13日稿)

現在の開門時間は、

9:00~16:00です。

 

「市民大学講座」7月14日(11:00~15:00)に開催します。ご講師は当HPのinternet市民大学に続けてご投稿くださっています伊藤益先生(筑波大学名誉教授)です。詳細は左端のタブ「公開開講座・Seminar のご案内」をご覧ください。満席の上に質疑応答で40分の延長となりました昨年と同様に、暑さに負けない熱い講座となるものと思われます。ご参加をお待ちしています。(2024.5.30)

★6月15日に受付開始します。

⇒60名のご受講者があり、盛況のうちに終了しました。次回を楽しみにお待ちください。

       (2024.7.15)

 

筑波大学名誉教授(日本思想)伊藤益先生のご講義【第6回】     

「宿業と自由」をUPしました。左端のタブ「internet市民大学」よりお入りください。      

         (2024.5.15)

 

親鸞聖人御誕生850年および立教開宗800年を記念した前進座特別公演「花こぶし」の水戸公演が2月に行われます。

詳細は左端の「お知らせ」タブより「行事日程と工事予定」をご覧ください。

(2024.1.11)

⇒ご鑑賞、御礼申し上げます。

 

「除夜の鐘」をつきます。23:50~01:00頃。ご参拝ください。   (2023.12.31)

⇒ご参加・ご参拝ありがとうご

 ざいました。(2023.01.1)

 

2023年度の新米が入荷しました。今年の新米も昨年同様ローズドール賞(最優秀賞)を受賞した新品種「ゆうだい21」です。詳細は左端のタブ「庵田米の販売について」をご覧ください。    (2023.10.20)

 ⇒売り切れました。ご購入あ

 りがとうございました。

            (2024.04.15)

 机に向かい静かに目を閉じると、想いは6年前に訪れたキエフ〔キーウ〕に飛ぶ。ホーチミン経由のベトナム航空でモスクワに着いた私は、その足で駅に向かい、翌日の夜行列車を予約したのだった。

 

 首都キエフは、ロシア正教会(今はウクライナ正教会)の建物が夕日に輝く美しい都市だった。十字架を抱えたキエフ大公ウラディミル1世がドニエプル川を見下ろし、独立広場にはウクライナ国旗とEU旗が記念塔を取り囲んでいた(大学の授業で配信した動画の一部をUPします)。

 

  モスクワからキエフまでは夜行で一晩、1時間ごとに寝台列車が出ている。乗車当日その場でキップも買える。「母がウクライナの出身なんだ」と話していた初老のロシア人男性。両国に親戚がいる人々も多い。その国に攻め込むとは…刻々と届く映像を見ていて涙が止まらない。


 事態を予想しなかったと話す識者も多い。フィンランド侵攻(1939)・ハンガリー事件(56)・チェコスロヴァキア事件(68)と繰り返された暴力。必ずキエフまで侵攻すると私は確信していた。なぜ事前に米軍やNATO軍を緊急展開させなかったのか。抑止力となったはずだ。腰の引けた指導者たちの宥和政策が、ヒトラーの勢力拡大を可能にしたことを思い出す。


 キエフではミンスク(ベラルーシの首都)行きの寝台列車の切符が買える。チェルノブイリの側を抜けた列車は、翌朝にはミンスクに着いた。そのベラルーシでは、一昨年にはルカシェンコ政権に対する激しい民主化要求デモが続いた。ロシアでも反戦デモが続いているようだ。ナショナリズムに染まらないロシア人の知性に、僅かな光明を見る思いがする。

      (2022.2.26)

《追伸》
  十数年前のロシア航空、隣に座ったチェコ人青年の言葉が思い出される。チェコ解体(1939)と「プラハの春」弾圧(68)を経験した彼らの言葉は重い。 
  Russia is more dangerous

  than Germany.


 自国の権益と安全保障を要求して一方的に他国に攻め込む姿勢は、満蒙特殊権益を死守しようとした80年前の日本と重なる。欧米諸国による圧迫やウクライナの性急な親欧姿勢が攻撃を誘発したとする言説も聞かれるが、それは米国による包囲網が日本を追い込み開戦に至らしめたとして、日本の侵略行為を矮小化しようとするのと同じである。        (2022.5.5)

 

 

 

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