【第4回】悪の思想                                  筑波大学名誉教授 伊藤益

写真とキャプションは当HP管理人

                                        

 親鸞は、生涯をつうじて、深い罪業意識をかかえつづけていました。罪業のかたまりともいうべき自分は、いかにすれば救われるのか。その問いを解くために激しく苦悩し、法然の門にはいることによって、かろうじて解決への途(みち)にたどりついたというのが、親鸞の青春期だったといってよいでしょう。罪業にまみれるということは、己れが悪であるということと同義です。したがって、親鸞は、終始悪の自覚にさいなまれ、悪の問題をいかにとらえるべきかということに関して、悩みぬいたものと考えられます。いつのころのことなのか、厳密に特定することはできませんが、親鸞は、おそらく法然の導きのものとに、この苦悩にいちおうの決着をつけたのでしょう。彼は、悪人正機説に到達しました。親鸞は、口伝(口授)という形で、『歎異抄』の著者にむかって、悪人正機説を説いています。それが、同書第三条に記されています。以下に、第三条の全文を引用してみましょう。

 

善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや。しかるを、世の人つねに言はく、「悪人なほ往生す。いかにいはんや、善人をや」。この条、一旦、そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善(じりきさぜん)の人はひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死(しょうじ)を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、願をおこし給ふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも、往生の正因(しょういん)なり。よつて、善人だにこそ往生すれ、まして、悪人は、と仰せ候ひき。

 

 この第三条には、形式上の問題があります。『歎異抄』のいう「大切の証文ども」、すなわち、「親鸞語録」を織り成す第一条から第十条までの条々が、第十条を除いて、すべて「~と云々」という形でしめくくられているのに対して、この第三条が、「~と仰せ候ひき」で終わっている点です。第十条は、現存の諸本では、段落の区切りなしに直接に別序とつながっていますし、かりに諸本が錯簡を示し、本来はこの条のみが独立する形であったとしても、それは、親鸞語録(大切の証文ども)全体の語りおさめとして、末尾を、「~と云々」よりもはるかに荘重な「~と仰せ候ひき」としているもの、と推断されます。なぜ、全体のしめくくり(語りおさめ)でもない第三条のとじめが、「~と仰せ候ひき」という形をとっているのか、多くの研究者たちのあいだで疑問とされてきました。「~と仰せ候ひき」とは、「~と法然上人が仰せになった」という意味だと解釈するむきもあります。しかしながら、それならば、なぜ第三条だけが親鸞語録という枠組みをはずれているのかというあらたな疑問が生じてしまうことになるでしょう。また、第三条に、親鸞の言説と『歎異抄』の著者のそれとの混在をみとめ、「~と仰せ候ひき」は、前者についていわれているのだとする説もあります。けれども、もしこの説にしたがうとすれば、今度は、第三条全体が他の条々とはちがった、いわば異様な体裁をとっていることになり、それはいったいなぜなのかという解決の困難な問題が、別途に生じてしまいます。このような問題を問うことは、第三条、ひいては『歎異抄』全体の研究をいたずらに複雑にすることにもつながりかねないのではないでしょうか。

 形式上の異質さを重大視し、その意味を追究してみたところで、内容に大きな変化が生ずるとは考えられません。形式上の問題にあまりにも深くこだわりすぎると、ともすれば、内容の理解と分析がおろそかになってしまうおそれがあります。この論考では、形式上の問題をめぐる煩瑣な議論には、これ以上踏みこまないことにしたいと思います。ただし、第三条の形式上の異質さについては、いちおうこう考えておくことにいたします。すなわち、『歎異抄』の著者にとって、ひいては、親鸞語録の当の語り手たる親鸞自身にとっても、第三条の内容は、他の条々に増して、きわめて重要な意義をになうものであった、それゆえ、著者は、あえて端的にすぎる「~と云々」を避けて、「~と仰せ候ひき」と述べたのだ、と。これは、「善人でさえも往生を遂げるのならば、ましてや悪人が往生するのは当然のことではないか」と主張する悪人正機説が、親鸞思想の核心をなすという見かたに立った解釈です。

玉日姫御本廟(当山飛び地境内)にて
玉日姫御本廟(当山飛び地境内)にて

 本セミナーの前回(第3回)の論考で、「承元の法難」のくわしい経緯を説明する際に述べましたように、親鸞が師法然とほぼ同等の重罪に問われたのは、一つには、彼がそのころからすでに悪人正機説を公然と説いていたことに原因があったのではないか、と推測されます。自力の善人よりもむしろ他力の悪人のほうが弥陀の本願にかなうのだという言説は、みずからを善人と信じながら自力の修行に力をそそいでいた南都北嶺(顕密仏教)の僧侶たちの激しい怒りを買ったことでしょう。その怒りが原因の一つとなって、親鸞に対する重い刑罰を招いたのではなかったかというのが、わたくしの見解です。この見解が当を得ているとすれば、そしてまた、『歎異抄』の親鸞語録(大切の証文ども)が親鸞の84、5歳ころ以後の言説だとするならば、親鸞は、34、5歳のころから最晩年にかけて、一貫して悪人正機説を説きつづけたことになります。親鸞は、法然の教示を得てみずからが確立した教説の中核に悪人正機説が位置づけられることについて、きわめて自覚的であった、と申せましょう。

 だとすれば、親鸞思想の内実を追思(ついし)するいとなみは、悪人正機説の解明を主たる課題としなければならない、と考えられます。それゆえ、わたくしは、今回の論考を「悪の思想」と題して、ここで、悪人正機説の真義をあきらかにしようとこころみている、という次第です。ところが、わたくしどもが日常生活において依拠している通常の道徳や倫理の次元から見れば、悪人正機説は、とうていまっとうとはいえない言説、異常な思想だと考えざるをえません。ふつうならば、善人こそが救われて、悪人などまったく救われる可能性をもたないと考えるべきでしょう。それこそが、この現実世界の常識というものです。日常的で常識的な視点から見れば、悪人正機説を自己の思想の根幹に据える親鸞は、破戒の論理を展開する破戒僧以外のなにものでもないことになってしまいます。「承元の法難」に際して、法然とその門下の活動を抑圧しようとした顕密仏教(旧仏教)側は、おそらく、親鸞をそのような破戒僧と見ていたことでしょう。ということは、親鸞の悪人正機説を、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」といったような、通常の仏教道徳、仏教倫理に即して解明することなど、およそ不可能であることを示唆しています。従来の研究は、日常道徳、日常倫理に足場を定めたうえで、悪人正機説の真義を解こうと努めてきました。しかしながら、そうした研究は、通俗的な発想から脱しえず、それゆえけっして妥当な結論を見ないという意味で、むなしい試みでしかなかった、というべきでしょう。この論考では、まず、『歎異抄』の悪人正機説が従来どのように解されてきたのかをあきらかにし、そのうえで、それらの解釈の問題点をできるだけ簡潔に指摘しておきたいと思います。

 

 

 主著『教行信証』をはじめとする親鸞自身の手に成る著作や、覚如の『口伝鈔』第十九条をのぞく親鸞関係の論著には、悪人正機説がまったく説かれておりません。『口伝鈔』は、覚如が如信から伝え聞いた親鸞の言説を前面に押し立てる書ですから、『歎異抄』とまったく無関係であるとは申せません。拙著『私釈親鸞』(北樹出版)などでも述べたように、如信は、『歎異抄』の著者であった可能性があります(現代の通説では、同書の著者は、河和田の唯円とされています)。もし如信が著者ではなかったとしても、最晩年の親鸞のもとに直系の孫として近侍していたらしい彼は、『歎異抄』の著者と親しく交わっており、その交友関係が、『歎異抄』と『口伝鈔』との内容上の重なりに、色濃く反映されていると見ることもできます。その意味において、『口伝鈔』は、『歎異抄』と近しい関係にあり、したがって、それは、『歎異抄』の言説(悪人正機説)が親鸞自身のものであることを、客観的かつ決定的に裏づける根拠とはならない、といわざるをえません。すると、『歎異抄』の悪人正機説は、親鸞自身が語ったものではなく、同書の著者の独自の見解である可能性が浮上してまいります。『歎異抄』、わけても第三条と親鸞自身の見解とは、いったんは切り離してとらえられるべきであるという、文献学的解釈(石田瑞麿など)が成立するゆえんです。

 しかし、この解釈は、文献を手がたく精査している点で強みをもつものの、「口伝」ということが仏法において有する重みを的確に把握していないように見うけれられます。親鸞は、悪人正機説の文章化を避け、それを口伝という形でのみ門弟たちに伝授していた形跡があります。当面の解釈は、この点を見逃しているのではないでしょうか。また、この解釈は、親鸞がのこした書簡への検討を怠っているように思われます。親鸞の代表的な書簡集といえば、多くの人々が、ただちに『末燈鈔』を想い浮かべることでしょう。覚如の次男従覚によって編纂されたこの書簡集のなかで、親鸞は、いくたびも、「造悪無碍(ぞうあくむげ)」におちいった門弟や門徒たちを厳しく戒めています。道徳的、倫理的な意味での悪行を行っても、弥陀の本願を信じているかぎりはかならず救われる、しかし、だからといって、故意にそういた悪行を為してはならない、と親鸞はいうのです(第十六通、第十九通、第二十通など)。これは、幼児にすら理解できる、あまりにもあたりまえすぎることであって、わざわざ文(ふみ)  に書くまでもない戒めだ、というべきでしょう。それにもかかわらず、このような当然すぎる戒めを親鸞がくりかえし説かなければならなかったことには、明確な理由があったはずです。理由は、ただ一つしか考えられません。すなわち、親鸞は、かつて関東の門弟たちにむかって、「口伝」という形で悪人正機説を語ったことがあり、それが安易な誤解を受けて、門弟や門徒たちのあいだに、造悪無碍なる人々を生みだしてしまったからだ、というものです。『末燈鈔』は、きわめて明瞭に、悪人正機説が親鸞の所説にほかならなかったことを告げている、と申せましょう。

 つぎにとりあげるべきは、政治的左派に属する人々の、少々イデオロギー的性格を帯びた解釈です。それは、悪人正機説にいう「善人」とは、公家や上級武士などの富裕階層に属する人々のことで、一方、「悪人」とは、殺生をなりわいとする漁猟民や農民などの貧困階層に属する人々を指す、とするものです(古田武彦など)。これによれば、親鸞は、つねに貧困階層の救済を志向した、社会の根本的な改革をめざす、いわば社会的宗教者であったことになります。政治的かつ経済的な支配層を形成する人々(善人)をさしおいて、彼らによる搾取の対象となっている下層の民衆(悪人)こそがまず第一に救われるという考えかたは、現代社会の根本からの改革を求めている人々や、あるいは、既存の権力を全面的に否定する革命家たちにとって、かなり魅力的な思想に見えるのではないか、と思われます。仏法者たる親鸞に、社会の底辺で苦しむ人々を救いたいという気持ちがあったことは否定できないでしょう。

 しかしながら、前々回(第2回)の論考でも説いたように、親鸞が、信心とは弥陀から与えられるものであり、それゆえあらゆる人々にとって同一であると考えていたことは、疑いえないところです。要するに、親鸞によれば、弥陀の本願のもとでは万人が平等だということです。そのような徹底した平等主義者ともいうべき親鸞が、上層階級の人々をさしおいて下層階級の人々が弥陀の本願にあずかるというような、いわば逆差別の論理を披瀝したなどということは、とうていありえないことだとわたくしは思います。叡山をくだり、法然の門にはいったころから、一般の民衆と広くかつ深く接する機会を数多くもったであろう親鸞、流罪赦免後に、常陸国笠間郡稲田に居を定めて、民衆への布教活動にちからをそそいでいた彼が、社会改革の必要性をまったく認めていなかったと断定することには、どう考えても無理があります。ですが、貧富の差、身分の高下を問わず、だれもがみな釈尊の仏法に導かれるはずだと信じて疑わなかったであろう親鸞が、下層民だけが救われるといったような、かたよった見解に立ちいたったと解するのは、少しばかりゆきすぎた見かたであるといわざるをえないのではないでしょうか。

 親鸞の最大の関心事は、「往相還相二種廻向(おうそうげんそうにしゅえこう)」をいかに実践するかにあり、悪の問題などは彼の思索の本質的な対象ではなかった、したがって、悪人正機説を説く『歎異抄』第三条が親鸞の真意を伝えているとは考えられない、という解釈もあります(梅原猛など)。たしかに、『教行信証』教巻の冒頭部には、親鸞自身のつぎのようなことばが掲げられています。

 

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり。

 

これを重視するならば、親鸞が、わたくしどもが浄土に往き生まれる相(すがた)、 すなわち往相と、往生したわたくしどもが現生(げんしょう)に還(かえ)っていまだ弥陀の本願力にあずかっていない人々を教え導く相、すなわち還相とを、ふたつながらに重んじていたことは、疑いえないと申せましょう。

 ですが、このセミナーの前回の論考でも述べたように、親鸞が強烈な罪業意識のもちぬしであり、しかもその罪業意識が自己の根源的な悪性の自覚にまでつながっていたことは否定すべくもない、と考えなければなりません。また、第2回目の論考「親鸞の信心」においてくわしく説明したように、親鸞は、『教行信証』の信巻で「王舎城の悲劇」を『涅槃経』から大部にわたって引用し、阿闍世(あじゃせ)のような五逆(父殺し)を犯した者が救われるのかどうかを、懸命に問うていました。これを見れば、悪の問題が親鸞にとってその生涯をかけて考えぬかなければならない思想上の課題であったことは明白である、といわざるをえません。『歎異抄』第三条が、親鸞がさしたる問題とはしなかった悪の問題を過大視し、その点において親鸞思想の核心からずれていると解釈するのは、決定的ともいうべき過誤ではないか、と思われます。

当山本堂から見た冬景色
当山本堂から見た冬景色

 親鸞は、万人が道徳的かつ倫理的な意味での悪人にほかならないと考えていた、とする解釈もあります(暁烏敏など)。これによれば、『歎異抄』第三条にいう「善人」とは、自分が道義上の悪人であることについての明確な自覚をもたない人のことで、他方、「悪人」とは、自分が悪性のかたまり以外の何ものでもないことを見きわめながら深く己れを恥じかつ悔いている人ということになります。自己の道徳的かつ倫理的な意味での悪性に目覚めていない「善人」とは、自己自身についてまったく無反省な人であって、そのような人は、じつは善人の仮面をかぶった悪人にちがいありません。これに対して、「悪人」とは、自己反省をつらぬき、すこしでも道義的に善く在りたいと願う人ですから、一見するところとは異なり、じつは善人であると考えられます。そうすると、「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」という言説は、「一見善人であるかのように見えてじつは悪人にほかならない者が往生を遂げるとするならば、ましてや、一見悪人に見えてその実、善人以外の何ものでもない者が往生するのは、あまりにも当然すぎることではないか」と主張するもの、ということになります。要するに、この解釈は、親鸞の悪人正機説は、じつのところ、善人こそが弥陀の本願にあずかって往生するのだという善人正機説を、逆説的な形で表明したものにほかならない、と主張するものだと申せましょう。

 善人正機説は、顕密仏教(旧仏教)の論理をおびやかすはずがありません。それは、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」という通仏教的な教えを一歩も踏みはずしていないからです。世俗の道徳や倫理、たとえば儒教のそれにも適合することでしょう。そうすると、「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」という言説が、いったいなぜ顕密仏教や、日常道徳、日常倫理の側から排斥されなければならなかったのか、その理由が定かでなくなってしまいます。しかも、『歎異抄』はもとよりのこと、親鸞自身の著述やその他の親鸞関係の論著のなかにも、「善人」とは悪人のことで、「悪人」とは善人のことだという逆説の論理を展開する文脈は、まったく見あたりません。悪人正機説を、逆説的に善人正機説を語るものととらえるこの解釈も、やはり妥当なものとして成立しうる余地はない、といわざるをえません。

 『歎異抄』第三条に語られた悪人正機説を、日常の道徳や倫理の観点をかたく守ったまま解きあかそうとする諸家の解釈には、以上に検討したように、いずれも難点が含まれています。親鸞は、日常の道徳や倫理とは異なる次元に立って善悪の問題をとらえている。そう考える以外に、彼の悪人正機説の真義をあきらかにする途(みち)はない、と思われます。歴史学者のなかには、『歎異抄』第三条にいう「悪」は、現代的な視点から解釈されてはならない、と説く人々もいます。親鸞たち中世人にとっての「悪」は、いわゆる悪、すなわち道義上の悪を意味してはいない、それは、たとえば、「悪源太義平」とか「悪七兵衛影清」とかいわれる場合の「悪」を、つまり、ふつうの知恵や力能を超えた大きな力を指すのだ、というのです。こうした理解は、通常の道徳や倫理とは異質な次元に、親鸞の悪人正機説を位置づけようとくわだてるもので、その志向するところは、あながち見当ちがいとはいえないように見うけられます。しかしながら、もし、悪人正機説にいう「悪」が、通常の知恵や力を超越した権能の謂(いい)だとすれば、悪人正機説を押し立てることをとおして親鸞が人間について何をいおうとしているのか、すくなくとも宗教的観点からすれば、ほとんど意味不明となってしまいます。悪人とは普通人にはるかにまさる力能者であり、そうした力能者こそがまず第一に往生するなどという考えに親鸞が立っていたとするならば、彼はいったい仏法の本質についてどのような認識をもっていたのか、現代人はおろか彼の同時代人にとっても、まったく了解不能となってしまうのではないでしょうか。親鸞思想の解明ということに関して、いったいどのような形で日常の道徳や倫理を超えた次元なるものを措定してゆくべきなのか。わたくしどもは、その点について、さらにいっそう考察を深めてゆかなければならない、と思われます。

 

 

 現代の中等教育の教科書的レベルでは、悪人正機説の創唱者は親鸞にほかならないと断定されています。親鸞といえば悪人正機説、悪人正機説といえば親鸞というのが、わたくしども現代人のごくふつうの教科書的認識と申せましょう。しかし、これは正しい認識とはいえません。法然の愛弟子、勢観房源智の手に成る『法然上人伝記』によれば、すでに法然が口伝という形でではありますが、「善人尚以て往生す、況や悪人をや」と述べていたと考えられるからです。源智の伝えるところはかなり精確だったらしく、覚如の『口伝鈔』第十九条にも、「本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、如信上人おおせられていはく」とあります。『口伝鈔』は、悪人正機説は法然から親鸞へと相承されたものだ、というのです。現代の研究者のなかには、源智の『法然上人伝記』の当該の一節は、のちの宗派としての浄土真宗に属する何ものかによって改竄(かいざん)のうえ加上された形跡がみとめられる、と主張するむきがあるようです。けれども、のちの浄土真宗、すくなくとも覚如よりもあとの浄土真宗は、中興の祖蓮如をも含めて、悪人正機説をけっしてあらわな形で主張しようとはしませんでした。のちの浄土真宗は、むしろ、悪人正機説を宗門の内部に秘匿する方向性を示したといっても、けっして過言ではありません。そんな浄土真宗の側に、原本を強引に書きかえてまで、法然から親鸞への悪人正機説の継承を強調する必要があったのかどうか、疑問とせざるをえないところです。『口伝鈔』という、親鸞の、浄土真宗の開祖としての権威と、その思想の独創性とをきわだたせることに重きを置く書物が、「黒谷の先徳」すなわち法然からの相承を伝えているということは、悪人正機説の原点が法然であったことの動かぬ証拠ではないか、とわたくしは思います。

 それならば、悪人正機説は、親鸞以前の段階では、法然ひとりが説く、仏法における突出した教説だったのでしょうか。いちがいには、そうともいい切れない面があるようです。拙著『歎異抄論及』(北樹出版)で先行研究に依拠しつつ言及したように、法相宗の高僧貞慶もまたそれを語っていたらしいのです。貞慶は、『地蔵講式』という著作のなかで、「地蔵菩薩の感応は、善人よりもむしろ悪人の眼に満ちる」と述べています。この言説が、悪人正機説の一類をなすことは、否定すべくもないと思われます。貞慶は、法然とその門下が死罪や遠流の罪に問われた「承元の法難」の発端となった「興福寺奏状」を起草した人物です。そうすると、悪人正機説は、法然ひとりの独自の思想であったわけではなく、浄土宗はもとよりのこと、それと反対の立場に立つ旧仏教の側でも説かれた、鎌倉時代初期のころの、通仏教的な、いわば一種の流行思想だったのではないか、と推断されます。通仏教的な流行思想が、南都北嶺側から危険思想として抑圧されるというような事態は起こりえなかったでしょう。その意味において、親鸞は、流行思想のおだやかな流れのなかに、静かに棹差したにすぎないかのように見うけられます。

当山境内の太鼓堂
当山境内の太鼓堂

 しかしながら、親鸞は、じつは、みずからの悪人正機説のなかに、法然や顕密仏教(旧仏教)側にはみとめられなかった、独特の考えを導きいれています。法然は、悪人こそがまずは往生すると語ったものの、善人は往生できないとまで主張したわけではありませんでした。彼は、弥陀の本願の本来の対象は悪人であるけれども、その本願は善人をもつつみこむと説いていました(彼が主要な著作で披瀝する公式見解は善人正機説でした)。貞慶も同様です。彼は、地蔵菩薩の利益(りやく)は、悪人を主たる対象としつつも、けっして善人と無関係であるわけではない、と述べています。ところが、親鸞は、『歎異抄』第三条において、「自力作善の人はひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず」と語っています。「自力作善の人」が善人の謂(いい)であることは、ことさらに論ずるまでもありません。もし万が一、自力作善の人以外に善人がいるとすれば、それは、他力作善の人ということになるでしょう。しかし、他力をたのんで自分の力(自力)で善行にはげむなどということは、形容矛盾以外の何ものでもない、と申せましょう。

 ここで、親鸞は、はっきりといい切っているのです。阿弥陀仏の本願の本来の対象は、善人ではありえない、要するに、善人は、往生浄土という形では救われない、と。これは、貞慶はもとよりのこと、法然にすらみとめられない、独特で特殊な思想です。上にもすこしだけ触れたように、『法然上人行状絵図』などの法然関係の論著によれば、法然の公式見解は、「悪人なほもつて往生す、いはんや善人をや」というもの、すなわち善人正機説でした。『歎異抄』第三条の親鸞は、この善人正機説をほぼ全面的に否定しつつ、ただ悪人だけが救われ、善人は弥陀による救済の対象外となると断定している、といわざるをえません。善人正機説はもちろんのこと、悪人正機説も、それが善人の救済をも認める通仏教的な一般思想であるかぎり、顕密仏教(旧仏教)側をおびやかすことはありえなかったでしょう。しかし、善人は助からないと断言する親鸞の悪人正機説は、「善人」たる僧侶たちが学問と修業とをとおして「さとり」にいたると主張する顕密仏教にとって、絶対に容認することのできない暴論でした。顕密仏教側は、親鸞を指弾したはずです。若き日から上に見たような独特の悪人正機説をとなえていたであろう親鸞は、顕密仏教側の憎悪の対象となり、とうとう、師の法然と同等の遠流の罪に問われることになったもの、と考えられます。

 親鸞とほぼ同時代の臨済宗の僧無住道暁(むじゅうどうぎょう)によって編まれた『沙石集(しゃせきしゅう)』には、

 

(およ)そ仏法の大綱は諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)と云へり、大乗の学者是れにそむくべからず。七仏の通戒なり。

 

とあります。悪を作(な)さず、善行に努めて、みずからの心を浄めることが、仏法の根本だ、というのです。これは、一般に「七仏通戒偈」と呼ばれる仏法の大綱で、あらゆる宗派において通仏教的に認められる考えかたです。善人は助からない、ただ悪人だけが救われるという親鸞の思想は、この「七仏通戒偈」に反しているように見えます。親鸞は、みずからの悪の思想に関して、仏法の枠組みから逸脱しているのでしょうか。わたしは、そうではないと思います。親鸞は、一見逸脱しているかのように見えて、じつは、あくまでも仏法のうちに踏みとどまっている、と考えるべきでしょう。

 「諸悪莫作、衆善奉行」ということは、あまりに当然すぎることであり、年端のゆかぬ子どもにすら理解できることです。仏法は、釈尊以来、一貫してこれを説きつづけてきました。しかしながら、釈尊の場合はともかくとして、釈尊以後の仏法においては、「諸悪莫作」といわれる際の「悪」 が、その根本においてどのような事柄や事態を意味するのかが、徹底的に追究されることはなかったように見うけられます。「諸悪莫作、衆善奉行」が中国仏教のなかで強調される際には、儒教的価値観がそこに混入し、日常道徳や日常倫理の通俗的発想が浮き立つようになりました。中国仏教の移入をとおして構築された日本仏教においても、事情はほぼ同様でした。悪を作(な)してはならない、諸々の善を行え、という命法が、古今東西の別を問わずだれにでも当てはまることは、あらためて強調するまでもないことでしょう。けれども、仏法は、それが単なる道徳や倫理の次元を超えて、それらを根柢から基礎づける宗教思想であろうとするかぎり、そのような平板な命法の位相にみずからを押しとどめてはならないはずです。仏法は、その位相を外側に超越するか、あるいはどこまでも内側に深めてゆくか、いずれかの態度をとるべきものと考えられます。親鸞は、それを内側にむかって徹底的に深化させることによって、仏法の最深部にまで迫ろうとしました。しかも、それは、道徳や倫理をめぐる通常の思考を故意に拒斥することによって成る、いわば「存在論的」とも名指すべき斬新な試みでした。

当山の梵鐘
当山の梵鐘

 ただし、このことは、『歎異抄』の文脈を内在的に追っているだけでは、とうていあきらかにすることができません。『歎異抄』は、自力か他力かという問題設定の枠のなかで悪人正機説を披瀝するにとどまり、もっとも本質的な意味で悪とは何であるのか、という根源的な思索を深めようとはしていないからです。親鸞にとって、本真(ほんとう)の意味での悪とは何だったのか、そして、彼は、悪をめぐる思索をどのように深めていったのか。それを探るためには、いったん『歎異抄』の文脈から離れて、親鸞自身の著述や、他の親鸞関係の論著に目を配る必要がありそうです。

 

 覚如の『口伝鈔』第八条には、以下のような挿話が記されています。最明寺(さいみょうじ)入道北条時頼(ときより)の父時氏(ときうじ)が鎌倉幕府の政務をとっていたころ、幕府の公的な事業として「一切経」の書写が行われたことがありました。その折、経典の校合(きょうごう)のために、いくたりかの僧侶が鎌倉に招かれました。そのなかには、当時63歳の親鸞も含まれていました。校合の仕事が一段落した際、幕府は、校合にたずさわった僧たちをねぎらうべく、彼らに酒食の饗応をしました。食べ物のなかには、鱠(なます)や魚鳥の肉も含まれていました。五戒の一つ不殺戒を犯すことを懸念したのでしょう、それらを食するにあたって、僧たちは、それまで身につけていた袈裟を脱ぎました。ところがひとりだけ例外がおり、その僧は、袈裟を身にまとったままの姿で、肉味を食していました。その場に居合わせた時頼、当時はまだ9歳の少年で、開寿(かいじゅ)と呼ばれていた彼は、その僧のふるまいを不審に思って尋ねました。「御房は、なぜ、あの入道たちのように、袈裟をお脱ぎにならないのですか」と。尋ねられた僧、それは親鸞でした。親鸞は応(こた)えました。「あの入道たちは、平生からこのようなご馳走を食べなれているので、ちゃんと袈裟を脱ぐだけのゆとりがあったのでしょう。しかし、かようなご馳走に慣れていないこの善信めは、つい度を失って、袈裟を身につけているのも忘れて食べてしまったという次第です」と。開寿少年(時頼)は、不審の念をぬぐい去ることができませんでしたが、その場はいったん引きさがったようです。ところが、いく日かを経て、ふたたび饗応が行われ、そのときもまた親鸞は袈裟を身につけたままの姿で、魚鳥の肉を食していました。いよいよ不審感を増幅させ、何度もその理由を問い尋ねる開寿に根負けしたのでしょうか、親鸞は、およそつぎのように、みずからの本心を語りました。

 

たまたま人間の身のうえに生まれて、他の生き物の生命を滅ぼし、その肉味を貪るなどということは、けっしてあってはならないことです。それゆえ、釈迦如来も、とりわけ厳しくこのことを戒めておいでです。とはいうものの、末法濁世(まっぽうじょくせ)の今の衆生は、無戒のときを生きているわけですから、戒を守る者も、それを破る者もいないという次第です。わたくしもいちおうは法体(ほったい)をとってはおりますものの、その心は、世俗の人々と何のちがいもありませんので、これらの生き物を食べております。とは申せ、どうせ食べるのであれば、これらの生き物を生死(しょうじ)の世界から解脱させてやりたいと存じます。しかしながら、仏弟子として生きてはおりますものの、智慧もなければ徳もないわたくしです。せめて、三世の諸仏解脱幢相(げだつどうそう)の霊服といわれる袈裟を身につけて、その力を借りれば、これらの生き物を輪廻の定めから解き放ってやれるのではないか、と思ったというわけでございます。

     

 『口伝鈔』が語るこの挿話を史実と認定することには、いささか困難がともなうようです。『口伝鈔』は、開寿(北条時頼)の父時氏が鎌倉幕府の政務をとっていたと述べていますが、幕府の正史『吾妻鏡』を見るかぎり、時氏が幕政全般をつかさどる執権の地位にあったことを確証する記事は、どこにもありません。また、幕府が「一切経」の書写、校合をしたのは、親鸞が63歳のときのことと推断されますが、おそくともそのころまでには、彼はすでに生まれ故郷の京都に帰っていたものと考えるのが穏当です(本セミナー第3回「親鸞の生涯」参照)。したがって、「一切経」の書写、校合の折に、親鸞が鎌倉幕府で酒食の饗応にあずかるという事態は、史実としてはありえなかったのではないか、と考えられます。『口伝鈔』を虚偽に満ちた書物としておとしめるつもりなど、もうとうありません。ですが、すくなくとも当面の挿話に関するかぎり、同書は史実に即していない、といわざるをえません。ただし、史実に即さないということは、そのままただちに「真実」に反することを意味しているわけではないと思います。人間の書く物には、故意に「事実」から離れ、それゆえにかえって、単なる事実の次元を超えて、「真実」の核心に触れるということが、往々にして起こりうるものです。この場合も、そういうことなのではないでしょうか。『口伝鈔』が語る、開寿少年の不審に対する親鸞の諭すようにていねいな応答は、一見ただの作り話のように見えて、じつは、親鸞思想の精髄を如実にいいあらわしているのではないでしょうか。

 みずからが生きる時代を、戒を保つ者もそれを破る者もいない、末法無戒の世ととらえる認識を親鸞がいだいていたことは、たとえば、『教行信証』の方便化身土巻に、当時最澄に仮託されていた『末法灯明記』が大部にわたって引用されていることなどから見て、否定しがたい事実です。次回の論考でくわしく述べる予定ですが、親鸞は、輪廻思想を受容し、それゆえに輪廻の世界からいかにして脱却すべきかを真剣に考えていました。そのような親鸞が、自分が食した生き物を、せめて霊服たる袈裟の力でも借りて何とか解脱させてやりたいと念ずるということは、十分にありうることです。ましてや、生き物を殺して、その肉味を貪るようなことがあってはならない、という不殺生戒に根ざした思想は、仏法を奉ずる親鸞にあっては、当然すぎるほどにあたりまえで自然な、いわずもがなの思想であった、と申せましょう。親鸞は、たしかに、

 

まれに人身をうけて生命(しょうみょう)をほろぼし肉味を貪する事はなはだしかるべからざることなり。

 

と考えていたもの、と思われます。この点についての傍証となるのが、『教行信証』の信巻に、『涅槃経』から、「一切衆生(いっさいしゅじょう)、悉有仏性(しつうぶっしょう)」という言説が10回以上にもわたって引用されている事実です。「一切衆生、悉有仏性」とは、生きとし生けるもののすべてに、本来仏(ぶつ) となりうる性質が内在しているという認識を披瀝する言説であり、その背後には、いわゆる「如来蔵思想(にょらいぞうしそう)」が控えています。

日本海に沈む夕日(柏崎付近にて)
日本海に沈む夕日(柏崎付近にて)

 如来蔵思想とは、『如来蔵経』の「一切の衆生は如来を胎に宿している」という旨の言説に基づいて説かれた思想で、もともと古代インドに由来することはあきらかです。ただし、古代インドでは、すべての動物に仏性(如来)が宿っているという考えかたをとるものでした。西域を経て中国から朝鮮半島へと伝えられてゆく過程でも、その思想内容が大きく変容された形跡はみとめられません。ところが、如来蔵思想は、朝鮮半島から日本へと移入される際に、大きな変貌を遂げました。古代の日本では、神祇信仰(古神道)が勢威を保っており、そのなかで信ぜられていたタマ(霊、魂)信仰が、如来蔵思想にすくなからぬ影響をおよぼしたからです。タマ信仰とは、ありとあらゆる事物にタマという霊的実体が内在すると信じるものです。古代の日本人は、たとえば、一定の土地(くに)に宿るクニダマや、木々に宿るコダマ、人間に宿るヒトダマなどを想定していました。彼らは、具象的に実在する物のみならず、ことばという抽象的な存在にすらタマが内在しうると考えていました。それがコトダマ(言霊)です。

 いささか余談めいた話になりますが、コトダマ(言霊)信仰は、古代の日本人のみならず、後世の日本人、そしておそらくは、近・現代の日本人にも大きな影響を与えたように見うけられます。元来、ことばに宿るコトダマ(言霊)は、そのことばどおりの事柄や事態を現実世界のただなかに現出させると考えられていました。たとえば、わたくしが怨憎会苦にとらわれて、わたくしにとっての怨憎の対象であるだれかがこの世界から消え失せてくれることを切に願って、「〇〇死ね」と言挙(ことあ)げしたとしましょう。もっとも素朴で原初的なコトダマ(言霊)信仰によれば、その「〇〇死ね」ということばは、コトダマ(言霊)の霊威によって実現されることになってしまいます。「〇〇さん」は、わたくしの発したことばどおりにその生命を失ってしまうというわけです。わたくしの怨憎会苦はそれによって晴れ、わたくしはさっぱりした気持ちになれるのかもしれません。しかし、もしそのような事態がひっきりなしに起こるとすれば、ことばをつかうということは、とても危険で、それゆえおそろしい行為ということになってしまいます。だから、古代の日本人のあいだには、ことばの使用を抑制しようという志向性が生じました。ことばを堂々といい立てること、すなわち「言挙(ことあ)げ」が忌避されるようになったのです。わたくしは、このような忌避感が、日本人から多くのことばを奪っていったのではないか、と考えています。総じて日本人には、ことばとことばをぶつけ合うこと、つまり、面と対(むか)って人と議論をすることを避けようとする傾向があります。それは、いまなお日本人が、コトダマ(言霊)信仰のなごりを引きずっていて、ともすれば言挙げを望ましからぬ行為と見なしてしまうからではないのか。わたくしは、そのように考えてしまうのです。

熊野本宮(現在の本宮は右端の山中にある)
熊野本宮(現在の本宮は右端の山中にある)

 それはともかくとして、神祇信仰(古神道)の中核に定位されたタマ信仰によれば、動物ばかりではなく、植物や、鉱物などの無生物にも霊魂が宿ると考えられます。如来蔵思想は、このようなタマ信仰を有する人々のあいだで受容されました。すると、どういうことが起こるでしょうか。如来蔵思想にいう仏性(如来)は、タマと類比ないしは同一視され、動物のみならずあらゆる生き物に仏性が宿ると信ぜられるようになるのではないか、と推測されます。実際、事態は、そのような方向へと進んでゆきました。如来蔵思想は、たくみに日本流に焼きなおされ、生命(いのち)あるすべてのものに仏性(如来)は内在すると考える思想となっていったのです。親鸞が、『涅槃経』からいくたびも「一切衆生、悉有仏性」という言説を引用したとき、如来蔵思想は、すでにインド固有の原型を離れて、徹底的なまでに日本化されていたもの、と推断されます。さて、このようにして日本流に変容された如来蔵思想に足場を置いていたであろう親鸞が、人間が「生きて在る」という現実に対(む)き合うとき、その「生きて在る」ことは、いったいどのような意味をもってくるのでしょうか。

 生きて在ることは、当然のことですが、食べることを前提として成り立っています。食べることは、さまざまな動植物を殺すことに基づいてこそ可能になります。親鸞が依拠していたとおぼしい日本流に変容された如来蔵思想によれば、すべての動植物には仏性(如来)が内在していると考えられます。そうすると、動植物を食することは、それらが有する仏性を踏みにじり犠牲にしてしまうことを意味するといわざるをえません。仏性を踏みにじり、果てはそれを無(な)みすること。仏教的には、それ以上の悪はありえないでしょう。それゆえ、人間が生きて在ることは、まさにそれ自体として悪以外の何ものでもないことになります。とはいえ、人間は、死病にとりつかれるといったようなやむをえざる窮地に立たされでもしないかぎり、生きて在ることを、けっしてやめることができません(自殺は、不殺生戒に反しますから、絶対に許されません)。そうであるかぎり、人間は食べつづけざるをえません。生きて在ることを放棄しないとすれば、人間はどこまでも悪を犯してやまないことになります。親鸞は、このことをはっきりと見きわめていたのではなかったでしょうか。彼は、人間が「いま、ここ」に生きて在るということそのものを、「悪」ととらえていたものと思われます。

 最晩年の著作とおぼしい『唯信鈔文意』において、親鸞は、自身をも含めたすべての人間を、「具縛(ぐばく)の凡愚(ぼんぐ)」「屠沽(とこ)の下類(げるい)」と規定しながら、つぎのように述べています。

 

具縛はよろづの煩悩にしばられたるわれらなり。煩は身をわずらはす、悩はこころをなやますといふ。屠はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふしというものなり。沽はよろづのものをうりかふものなり、これはあき人なり。これらを下類といふなり。(中略)れふし・あき人、さまざまのものはみな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。

 

 親鸞から見れば、わたくしども人間が「具縛の凡愚」であること、すなわち、煩悩まみれの救われがたい生き物にほかならないことは、何ら疑問の余地のない事実であり、あらためて説明するまでもないことです。ここで問われるべきは、親鸞のいう「屠沽の下類」とは何ものなのかということでしょう。戒度(かいど)の『聞持記』は、元照(がんしょう)の『阿弥陀経義疏』にあらわれるこの語を釈して、「生き物を殺す者」と「酒を売る者」の意であるとしています。親鸞も、「屠」は猟師、漁師のことだと明言しています。したがって、「屠」については、『聞持記』の釈をそのままに受けとめても、何の問題もないでしょう。ですが、「沽」をいかにとらえるべきかは、少々問題のあるところです。辞書的に見れば、『聞持記』の釈が正しいことは、疑いえないと思います。酒を売るという行為は、間接的にではありますが、仏法にいう「五戒」の一つ「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」に抵触しますので、このような行為にはしる者が「下類」にほかならないことは、否定しようもありません。ところが、親鸞は、「沽」を、さまざまな物を売買する「あき人」、すなわち商人一般の意に解しています。如来蔵思想に立脚する親鸞が、生き物を殺すことをもって生活のたずきとする猟師や漁師を悪人と見なし、そうした人々を下類ととらえることは、わたくしどもの理解の容易におよぶところです。しかし、酒を売る商人はともかくとしても、物を作るか、あるいは仕入れて、ただ単にそれを売るだけにすぎない商人が、なぜ下類であり悪人であるということになるのでしょうか。人身売買をしたり、武器を売ったりする商人たちには、たしかに問題があるでしょう。ですが、それ以外の一般の商人たちは、生き物を殺すことや飲酒にはまったく関わっていないはずです。親鸞は、おそらく何か特別な理由があって、彼らを下類(悪人)と解したものと思われます。けれども、親鸞は、みずからの著作のなかで、その特別な理由をあきらかにしようとはしません。『歎異抄』や『口伝鈔』などの関連文献も、それについては黙したままです。したがって、その理由は、わたくしどもが独自に推察すべきものということになります。歴史にはっきりとその名を刻んだ人物の思想を追思する際には、可能なかぎり推察や推量は避けるべきでしょう。しかし、目下の問題については、それもいたしかたのないところです。

モスクワのマルクス像。建物の向こうが「赤の広場」。
モスクワのマルクス像。建物の向こうが「赤の広場」。

 わたくしは、親鸞は、商行為の構造そのものに注意をはらっていたのではないか、と考えます。商行為の基礎構造。時代錯誤(アナクロニズム)におちいることを覚悟のうえで申しますと、それは、いわゆる「資本」の基本構造とほぼ同様なのではないでしょうか。K・マルクスは、『資本論』(Das Kapital)において、それをおよそ以下のように説明しました。資本の基本構造は、金銭(G)をもって商品(W)を生産もしくは入手し、それをもう一度金銭(G)に換えることにある、というのです。ただし、この場合、最初のGと交換後のGとがまったく同量(同額)だとすれば、資本の運動には何の意味もないことになってしまいます。それではまったく利潤が生まれないからです。交換後のGは、そこに利潤gを加えて、G+gとなっていなければなりません。では、利潤gは、いったいどのようにして生じるのでしょうか。マルクスによれば、それは労働時間(労働日)のカラクリによって生まれます。たとえば、いま、わたくしが資本家(商人)と、「1日8000円」という条件で労働する契約を結んだとしましょう。人一倍懸命かつ熱心に働いたわたしは、6時間で日給8000円分の仕事を果たしました。さて、そのとき、資本家は、わたくしが労働をうち切って自宅に帰ることを認めるでしょうか。認めるはずがありません。そんなことを認めれば、利潤gが生まれず、わたくしを雇用した意味がなくなってしまうからです。資本家は、わたくしに対して、さらに4時間、場合によっては6時間程度の労働を要求することでしょう。わたくしは、この要求を拒否することができません。資本家の怒りを買い馘首(かくしゅ)されてしまうと、わたくしは失業者となり、生活が成り立たなくなってしまうからでもありますが、じつは、そもそも、6時間で日給分の仕事を成し遂げたことを厳密に数値化して証明してみせるすべがないからです。しかたなしに、わたくしは、さらに4時間から6時間ほど働きます。その4~6時間の労働は無賃労働です。資本家は、わたくしや仲間の労働者たちの、こうした無賃労働によって、巨額の利潤gを手にいれる。これこそが資本の基本構造にほかならない、とマルクスは説くのです。

 13世紀の日本で、宗教者(仏法者)、思想家として生きた親鸞が、19世紀の西欧社会(ドイツやイギリス)を生きたマルクスの経済思想をすでに先取りしていたなどといえば、それはもはや時代錯誤の次元を超えて、狂気の沙汰とせざるをえないでしょう。わたくしも、そこまで愚かではないつもりです。親鸞の思想は、マルクスのそれとは何の関係もないと思います。前回(第3回)の論考やこの論考において、親鸞を宗教的社会改革者として史上に位置づけようとする政治的左派の見解に対して批判的な態度をとったのも、そう考えるがゆえのことです。ですが、親鸞は、マルクスとまったく同じように考えたわけではないけれども、商行為の根柢に、何か構造的で根本的な悪のようなものを見とっていたのではなかったでしょうか。ごく単純な見かたからすれば、商人たちは同業の他者たちとつねに熾烈な競争をしており、同業の他者たちを市場で斥けなければ、自分の事業に十分な成功を収められないことは歴然としているといえます。しかも、彼らは、特段の悪意からではないにしても、ときには消費者の目をごまかさなければならないでしょう。こうした、いわば「排除の構造」とでもいうべきものを、親鸞は、商行為の奥底に見いだしていたのではないでしょうか。それゆえに、親鸞は、生き物を殺(あや)める猟師や漁師たちとともに、商人一般を下類、すなわち悪人ととらえたように見うけられます。

 上掲の『唯信鈔文意』の一節について、さらに注意をはらわなければならないのは、親鸞が、「いし・かはら・つぶて」のごときわれらは、猟師や漁師、そして商人たちとまったく同一の「下類」にほかならないと断定している点です。商行為は、上に見たように、悪しき構造をまぬかれることができません。猟師や漁師たちは、殺すというきわめて残酷な形で、他の生き物たちを排除しています。彼らもまた、商人たちと同じく、排除の構造のもとに、みずからの身(生活)を保っていると申せましょう。しかし、それだけではない、と親鸞は語ります。狩猟もしないし、漁業にも従事していない、そして、資本(会社、企業)を代表して商行為を主導しているわけでもない、わたくしども、一般のごくふつうの人間もまた、排除の構造のなかにとりこまれているのであり、したがって、下類、悪人以外の何ものでもない、と親鸞は断言するのです。一般のごくふつうの人間が、すべて例外なしに排除の構造のもとにくみこまれているというのは、いったいどういうことなのでしょうか。これもまた、親鸞がみずからその答えを明確に語っているわけではなく、したがって、わたくしどもが推察するしかない問題です。しかし、その問題を問い、それに対して何らかの応答をもたらさないかぎり、親鸞の悪の思想の全貌はけっしてあらわにはならない、といわざるをえません。

 

 わたくしどもの人生をふりかえってみましょう。特別な場合をのぞいて、小学校や中学校には、だれもが無試験で入学できます。高校も、現在は、希望者のほぼ全員が入学できるようになっています。大学に関しては、いまは900近くもの学校がありますから、選(え)り好みさえしなければ、進学希望者は、だれでもどこかに入学できるといっても、けっして過言ではないでしょう。しかし、一部の有名大学の入学試験は、大学の総数がいまよりも格段にすくなかった時代と同様に、相変わらず苛烈です。その入学試験に合格し、有名大学に入学する資格を得るということは、本人にとってはもとよりのこと、家族や親戚にとってもたいへんめでたいことです。けれども、入学試験という厳しい競争に勝ちぬいて喜びをかくせない人々の背後には、彼ら彼女らの何倍もの不合格者たちがいます。不合格の憂きめを見た人々は、己れの能力のいたらなさや、あるいはわが身の不運を歎いて涙に暮れていることでしょう。入学定員というものが定められている以上、どうにもいたしかたのない事態です。ですが、この事態は、ごくふつうの人間が排除の構造のなかを生きていることを、如実に示しています。自分が合格するということは、ほかのだれかが不合格の苦しみをなめるということ、つまり、そのだれかが徹底的に排除されることにほかならないからです。

 大学生活も終盤にさしかかると、今度は、就職試験が待ちかまえています。ふつうの就職試験には、何段階もの選抜過程があります。一つ一つの過程を乗りこえるたびごとに、合格者は不合格者を斥けることになります。だれかを特定して意図的に排除しようとしているわけではないでしょうが、就職が決まるということは、結果的に、何十人、何百人もの人々を排除してしまったことを意味しています。就職すれば、今度は、企業内の昇進競争の渦に巻きこまれます。主任になり、係長になり、課長になり、次長になり、部長になる……という過程で、わたくしどもは、数多くの他者を押しのけるようにして斥けてゆきます。ここに、排除の構造が顔をのぞかせていることは、いかにしても否定できません。思いどおりに昇進できるかどうかにかかわらず、結婚する人もたくさんいることでしょう。2人だけが愛し合い、結ばれるだけのことなら、そこには何の問題も生じません。ですが、往々にして、自分が愛する相手を、他の人もまた愛していることがあります。その場合、愛する人と結ばれるということは、結婚という場から他の人を排除することを意味しています。人間の社会は、万事につけてこのようになっているといっても、けっして誤りではないでしょう。老後の介護施設への入居問題しかり、死後に墓地を手にいれられるかどうかということもまたしかり。まさに、ゆりかごから墓場まで、わたくしどもの生涯は、排除の構造によってつらぬきとおされている、といえます。

 そもそも、わたくしどもが「いま、ここ」に在るということそのものが、排除の構造を端的に示しています。なぜなら、たとえば、わたくしが「いま、ここ」において、立つなり坐るなりして占めている空間は、だれであれ、暴力以外の方法でこれをわがものとすることはかなわないからです。わたくしは、「いま、ここ」を生きて在るという、この単純きわまりない事実自体に関して、すでに他者を排除しているのです。世のなかには、自分は他のだれをも排除せず、むしろ逆に他者から排除されつづけて、その結果最弱者の立場にある、とうったえる人がいるかもしれません。排除の論理は、弱肉強食の論理にほかならないのですから、どこまでも負けつづける最弱者がこの世にいることは、否定できない事実でしょう。しかしながら、そのような最弱者もまた、排除の構造を具現して在ることをまぬかれることができません。なぜなら、その最弱者が生きて在るということは、彼もしくは彼女が、他の生き物を殺して食べていることにほかならないからです。最弱者であれ、最強者であれ、だれであっても人間は、すべからく例外なしに排除の構造にどっぷりと浸っているのだ、と申せましょう。

「見返り橋」の記念碑(当山境内西方)
「見返り橋」の記念碑(当山境内西方)

 おそらく、親鸞は、このことを冷静に見きわめていたのであろうと思います。大正の末期から昭和の中期にかけて活躍した真宗大谷派の念仏求道者蜂屋賢喜代(はちやよしきよ)師は、その著『歎異鈔講話(たんいしょうこうわ)』(成同社、現在は北樹出版刊行の校訂本があります)のなかで、親鸞は万人悪人説に立っていた、と主張しています。わたくしは、この主張は決定的なまでに正しいと考えます。親鸞は、人間が例外なしに排除の構造のもとに生きて在ることを、明確に認識していた。であればこそ、彼は、あらゆる人間がことごとく悪人であると見切った。わたくしは、蜂屋賢喜代師とともに、そのように考えます。かくして、親鸞が『歎異抄』第三条にいう「悪」とは、道徳的もしくは倫理的な意味での悪などではなかったことが、はっきりとしてまいります。親鸞は、人間が、だれひとりとして例外なしに、すべてみな排除の構造を具現しつつ、「いま、ここ」に生きて在ることを見きわめ、それを「悪」と名指したのです。となれば、『歎異抄』第三条にいう「悪」とは、人間の存在(在ること)そのものの根柢に存する悪、すなわち「存在論的悪」にほかならなかった、といわなければなりません。

 道徳的もしくは倫理的な悪は、善との対比のもとに浮かびあがってくる悪、いわば相対的な悪です。これに対して、存在論的悪は、善との比較を絶した悪です。生きて在ることそのものが悪であるならば、善とは、生きて在らないことだということになりますが、そのような、存在の全面否定ともいうべき善が、人間の現実生活のうちに成り立ちうるはずもないからです。存在論的悪は、いわば「絶対悪」です。親鸞は、このようないっさいの相対性を無(な)みする絶対の悪に直面していたのだ、と申せましょう。『歎異抄』第三条の親鸞は、「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」と語ります。彼は、ここで、絶対悪の体現者にほかならない悪人こそが、弥陀の本願にあずかって救われるのだと述べているもの、と考えられます。その場合、「善人なほもつて往生を遂ぐ」といわれる、その「善人」とは何ものでしょうか。わたくしは、それは本来的に実在しえない者、いわば仮想された虚体以外のものではなかった、と解します。虚体、すなわち仮初めに想像されただけでじつは非実体にすぎない善人でさえも往生を遂げるとすれば、ましてや、実在としての悪人たる人間一般が往生できないはずはないではないか。親鸞は、そのように主張しているのではないでしょうか。だとすれば、「自力作善の人は……弥陀の本願にあらず」といわれることの意味もあきらかになってまいります。仮想されただけで実在しないもの、現実にはただの虚体でしかない善人を、弥陀がみずからの本願の対象とすることなどありえようはずもない。親鸞は、そのように考えていたのだと断じても、それはけっして失当ではない、とわたくしは思います。

 以上の考究によって、親鸞の悪人正機説、ひいては彼の悪の思想の真に意味するところが、ほぼあきらかになったのではないかと思われます。しかし、これだけではまだ、親鸞の悪の思想の全貌がすこしも余すところなくすべて浮き彫りになったとはいい切れないようです。人間存在の根柢に排除の構造をみとめる。そこにこそ親鸞の真意が存することは、もはや疑いえないように見うけられます。けれども、親鸞が人間存在の根源に見いだす、相対性を超えた悪、すなわち存在論的絶対悪は、いったい何が原因となってどこから生ずるのか。いいかえれば、何ゆえに存在論的絶対悪が人間の生きて在ることそのものを蔽いつくすことになってしまうのか。親鸞はその点についてどのように考えていたのかという問題が、いまだ十分な解決を得ないままに残置されているようです。わたくしの推察するところでは、この問題は、『歎異抄』第十三条に記された、あの有名な、親鸞と唯円との対話について、その意味するところを検討することをとおして、何らかの解答を得るのではないか、と考えられます。

 

 

 『歎異抄』の著者(通説にしたがうならば唯円ということになりますが)は、同書第十三条において、「本願ぼこり」、すなわち弥陀の本願に依拠している己れを誇り、その結果本願に甘えてしまうような人々は往生などできはしないという考えかたを、親鸞の真意からの逸脱、すなわち「異義」として批判しつつ、その文脈のなかで、最晩年の親鸞と高弟唯円とのあいだで交わされた、つぎのような対話(問答)を紹介しています。

 

また、ある時、「唯円房は、わが言ふことをば信ずるか」と仰せのさふらひしあひだ、「さん候ふ」と申し候ひしかば、「さらば、言はんこと違(たが)ふまじきか」と、かさねて仰せのさふらひしあひだ、つつしんで領状(りょうじょう)申して候ひしかば、「たとへば、人千人殺してんや。しからば、往生は一定(いちじょう)すべし」と仰せ候ひし時、「仰せにては候へども、一人(いちにん)も、この身の器量にては、殺しつべしとも覚えず候ふ」と申して候ひしかば、「さては、いかに、親鸞が言ふことを違ふまじきとは言ふぞ」と。「これにて知るべし。何事もこころにまかせたることならば、往生のために千人殺せと言はんに、すなはち殺すべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁(ごうえん)なきによりて、害せざるなり。わがこころの善くて殺さぬにはあらず。また、害せじと思ふとも、百人・千人を殺すこともあるべし」と仰せのさふらひしかば……

 

 これによれば、あるとき、親鸞が「唯円房よ、お前さんはわたしのいうことを信じるかい」と問い、唯円が「はい信じます」と答えたとのことです。親鸞は、重ねて「わたしのいうことに背かないのだな」と念を押し、唯円は、「もちろんでございます」と応じました。すると、親鸞は、唯円が予想だにしなかったことを口にしました。「まずもって、人を千人殺してくれないか、そうすれば、お前さんの往生は定まるであろうよ」といったのです。驚いた唯円が、「せっかくの仰せではございますが、このわたくしの力量では、千人はおろか一人といえども殺せるとは思えません」と答えたところ、親鸞は、「それならば、なぜこの親鸞がいうことにけっして背かないなどと申したのか」とたしなめたうえで、つぎのように語りました。「これでわかったであろう。何事も心のままになるのならば、往生のために人を千人殺せといわれれば、ただちに殺すこともできよう。しかし、たとえ一人といえども殺せるような業縁がないから、お前さんは人を害さないのだ。いいか、けっして自分の心が善いものだから殺さないというわけではないのだぞ。害するまいと思っていても、しかるべき業縁がもよおせば、百人、千人と殺してしまうこともあるものだ」と。

 わたくしども一般人は、その日常生活において、殺人などという非道な行為とは無縁であるにちがいありません。わたくしどもは、自分がなぜ人殺しをしないのかを考えるとき、それは自分の心が善いものだからだ、と無条件に確信することでしょう。ところが、そのような確信はまったくの誤りだ、と親鸞はいいます。彼は、人はだれしもしかるべき業縁にうながされれば、殺人という極悪の行為にすらはしるものであって、それは、自分の力でいかに努めてみても、けっして避けられはしない、と語るのです。つまり、親鸞は、ここで、悪の原因は業縁にほかならないと断言しています。『歎異抄』第十三条の文脈を素直に受けとめるならば、業縁とは「宿業(しゅくごう)」のことだと解せられます。悪は宿業に発する。親鸞は、そう述べていると見てよいでしょう。では、宿業とは何でしょうか。

旧関東軍司令部(長春)。現在は中国共産党が使用している。  この地は満洲国の首都とされ、新京と呼ばれた。
旧関東軍司令部(長春)。現在は中国共産党が使用している。  この地は満洲国の首都とされ、新京と呼ばれた。

 これをあきらかにするためには、殺すまいと思っても、宿業(業縁)のゆえに百人、千人を殺してしまうという事態が、具体的にどのようなことを指しているのかを探ってみる必要があります。わたくしどもが暮らす、21世紀の平和な国家日本、この紛争を解決する手段としての戦争を放棄した国にあって、殺すまいと思いながら、百人、千人もの人間を殺害してしまうというような事態は、とうてい起こりうべくもないでしょう。現代の日本人にとって、親鸞の上のような言説は、ただの妄言にしか見えないものと思われます。しかし、いまから80年ほど過去にさかのぼってみると、それはけっして妄言などではないことが、はっきりしてまいります。あの大戦(日中戦争、アジア・太平洋戦争)の際、わたくしどもの父や祖父、あるいは曾祖父たちは、どうふるまったでしょうか。彼らは、帝国陸海軍の兵士として戦場に駆りだされ、憎い、殺してやりたいと切実に思ったわけでもないのに、情況に引きずられて、何百人、何千人という敵国の兵士や民衆を殺害したことでしょう。その恐るべき殺人行為は、ときには、味方の勝利に貢献したいとか、あるいは、身近にいる戦友たちを助けたいといったような「善意」のもとに行われたもの、と思われます。善意さえもが非道にして極悪なる行為の原因となってしまうような、人為をもってしてはどうにも変えようのない「時代情況」。それこそが、親鸞のいう「宿業」にほかならないことを、この事例は端的に示しているのではないか、とわたくしは思います。

済南事件の慰霊碑(山東省)。山東出兵(1927~28)中の日本軍による攻撃で市民数千人が亡くなった。
済南事件の慰霊碑(山東省)。山東出兵(1927~28)中の日本軍による攻撃で市民数千人が亡くなった。

 

 『歎異抄』第十三条の宿業論については、近代以降、多くの研究者たちが批判的な検討を加えてきました。わけても無視しがたいのは、親鸞は自著のなかで「宿業」ということに言及していない、にもかかわらずそれを語る『歎異抄』は、親鸞思想の枠組みから逸(そ)れているのではないか、という批判です。文献的事実は、一見すると、この批判の妥当性を証示しているかのように見えます。けれども、親鸞は、晩年に京都にもどってから、とくに善鸞義絶事件以後に、関東の門弟たちに書き送った書簡のなかで、いくたびも、聖覚の『唯信鈔』や隆寛の『一念多念分別事』などを熟読するように指示しています。しかも、聖覚の『唯信鈔』のなかには、「宿業」という語がはっきりと記されています。親鸞が「宿業」という概念について何の関心もはらわなかったとは、とうてい考えられません。たとえ自著では、何らかの理由で言及する機会をもたなかったとしても、門弟たちに対して直接語りかける場面では、親鸞は、「宿業」ということを語ったと見るのが自然ではないでしょうか。『歎異抄』の著者は、「宿業」ということに関していえば、親鸞思想の枠組みからけっして逸脱などしていない、とわたくしは考えます。

 「宿業」という名の「時代情況」は、わたくしどもを雁字がらめに縛りつけます。わたくしどもは、いつもすでに「時代のなかの人間」であって、いかにあがこうとも、時代情況を脱したり超えたりすることはできません。わたくしどもが、「排除の構造」の外に出ることのできない、存在論的な意味での悪人であり、しかも、その悪の直接の原因が時代情況としての宿業にほかならないとすれば、わたくしどもは、もはや絶対に悪をまぬかれえないといわざるをえません。『歎異抄』第三条の親鸞はいっているのです。このような存在論的絶対悪にまみれたわれらこそが、弥陀の本願の本来の対象となり、浄土へと摂(おさ)め取られるのだ、と。しかしながら、絶対悪を体現して在るがゆえに救われるのだという論理には、やはり飛躍があるように思われます。その論理に即するとすれば、絶対の悪人たる「わたくし自身」に対して、わたくしどもは何の疑問もいだく必要がないことになってしまいます。親鸞が絶対の悪を在るがままに容認したなどということは、けっしてありえないと思います。親鸞は、厳密には、絶対的に悪であるがゆえにわれらは救われると主張しているのではなく、身にまとわざるをえない悪に対して自覚的に在るからこそ、われらは救われる、と述べているのではないでしょうか。

北アルプス(信濃大町にて)
北アルプス(信濃大町にて)

 自分が存在論的絶対悪のにない手たることをいかにしてもまぬかれえないと自覚するということ、すなわち、生死の世界を流転するかぎり、永遠に排除の構造から脱(ぬ)け出せないと認識することは、じつにつらいことです。それは、わたくしどもの心の奥底に深い悲しみを刻みつけることでしょう。親鸞は、「真如」より来(らい)する者たる如来、すなわち阿弥陀仏が、わたくしどものその悲しみを悲憐して、わたくしどもを生死流転の世界から救い出してくれる、と考えていたのではないでしょうか。もしそのように考えていたとすれば、親鸞は、阿弥陀如来を形ある人格的実体としてとらえていたことになります。このセミナーの別稿において詳しく述べる予定ですが、このようなとらえかたは、親鸞の阿弥陀如来観が真に意図するところからいささかずれている、といわざるをえません。ですが、人間の根源悪の問題に論じ及ぶときには、親鸞もまた他の浄土教徒たちと同様に、阿弥陀如来を、いわば絶対の救い主としてどうしても具象化せざるをえなかったのだ、と考えられます。換言すれば、その本質において無色無形なる弥陀、絶対の空無ともいうべき如来を、具象化し人格化してとらえ、それをみずからが救われるためのよすがとせざるをえないほどに、親鸞をも含めたわたくしども人間は、無力にして弱い存在なのだと申せましょう。その弱さ、無力さの根源が存在論的絶対悪(根源悪)のうちに存することは、もはや事あらためて論ずるまでもないと思います。

 存在論的絶対悪にまみれているがゆえに、わたくしどもは、決定的なまでに無力です。しかし、このようにいうと、かならず反論する人があらわれます。いわく、悪であるがゆえに無力であると考えるのはおかしい、悪人には、人を殺したり、人を欺いたりする能力があるではないか、と。けれども、ここはよくよく考えてみましょう。人を殺(あや)めたり、人をだましたり「できる」ということは、本真(ほんとう)の意味での「能力」なのでしょうか。人間の社会において発揮される人間の「能力」とは、社会の発展のために貢献し、社会に利益をもたらす力であるはずです。人を殺したり、人を欺いたりすることが「できる」ということは、社会に貢献しその発展に寄与することにつながるでしょうか。そのようなことはありえない。そう断言してもよい、とわたくしは思います。「悪の能力」は、善に対して全面的に閉ざされています。したがって、それは、人間社会に対して何の貢献もなしえず、何の利益ももたらしません。それどころか、人間社会の良好な動きを阻害します。だから、「悪の能力」とは、もっとも本質的な意味において、単なる「無力」にすぎない、というべきでしょう。

 無力なる人間は、自力では何事もなすことができません。あくまでも、他力、すなわち弥陀の本願力にすがって、事を運び、事をなさざるをえません。ここに、いわゆる「絶対他力」という考えかたが、あらわな形で浮上してまいります。絶対他力、すなわち、万事が弥陀のはからいによって自然(じねん)に成りゆくのであって、どこにも自力が介在する余地はないという考えかたは、じつは、親鸞の存在論的絶対悪の思想の最終的な結論であって、親鸞思想全般の先験的な大前提などではありませんでした。親鸞は考えました。われらは存在論的絶対悪を身心にまとっているがゆえに決定的に無力である、無力だから自分だけでは何事もなしえず、信心すらも弥陀から賜わることによってようやく有しうるのだ、と。だとすれば、仏法の根幹をなす「慈悲」ということに関しても、わたくしどもは、無力であるがゆえに何もなしえない、と考えなければならないのでしょうか。もしそう考えざるをえないとすれば、わたくしどもは、「慈悲」の精神を前面に押し立てる釈尊の仏法と、本質的に疎遠であらざるをえないということになってしまいます。親鸞は、この点についていったいどのように考えていたのでしょうか。次回は、「往相還相二種廻向(おうそうげんそうにしゅえこう)」という親鸞思想の核をなす概念を分析することをとおして、 この問題を論じてみたいと思います。

(2022年10月9日稿)

現在の開門時間は、

9:00~16:00です。

 

境内の「お葉付きイチョウ」が見頃を迎えています。

ぜひお立ち寄りくださいませ。

(2024/11/20)

2024年度の新米が入荷しました。今年の新米も昨年同様ローズドール賞(最優秀賞)を受賞した新品種「ゆうだい21」です。詳細は左端のタブ「庵田米の販売について」をご覧ください。    (2024.10.04)

 

筑波大学名誉教授(日本思想)伊藤益先生のご講義【第7回】     

「浄土論―仏法は宗教なのか?―」(前半)をUPしました。左端のタブ「internet市民大学」よりお入りください。      

         (2024.9.23)

 

【馬頭琴と朗読のコンサートのご案内】

11月に、馬頭琴と朗読のコンサートが当山本堂にて開かれます。

馬頭琴・喉歌は嵯峨治彦さん、朗読は見澤淑恵さんです。お2人とも様々な場面でご活躍なさっています。

この機会にどうぞ、馬頭琴と朗読の素晴らしいコラボレーションの世界をお愉しみくださいませ。詳細は以下のチラシをご覧ください(PCをお使いの方は、左メニューの「スマホ用の速報掲示版」より、大きいサイズでご覧いただけます)。

(2024.9.23)

⇒終了しました。

 ご来場いただいた皆さま、

 ありがとうございました。

(2024/11/20)

 

日程2024年11月17日(日)

   14時~15時

  (13時30分 開場・受付)

演目:芥川龍之介「蜘蛛の糸」  

   ほか

場所:稲田禅房西念寺 本堂

  (茨城県笠間市稲田469)

 

チケット料金:前売り2000円

       当日 2500円

 

◆チケットは以下のフォームよりお申し込みください。

 お檀家の方は西念寺へお問合せ・お申し込みください(檀家割引あり)。

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScEiSUwHIRGfjPk0WfRn6-sSnAad4lZPtssVJAslC3Cx4x8dQ/viewform

※終了しました。

「市民大学講座」7月14日(11:00~15:00)に開催します。ご講師は当HPのinternet市民大学に続けてご投稿くださっています伊藤益先生(筑波大学名誉教授)です。詳細は左端のタブ「公開開講座・Seminar のご案内」をご覧ください。満席の上に質疑応答で40分の延長となりました昨年と同様に、暑さに負けない熱い講座となるものと思われます。ご参加をお待ちしています。(2024.5.30)

★6月15日に受付開始します。

⇒60名のご受講者があり、盛況のうちに終了しました。次回を楽しみにお待ちください。

       (2024.7.15)

 

親鸞聖人御誕生850年および立教開宗800年を記念した前進座特別公演「花こぶし」の水戸公演が2月に行われます。

詳細は左端の「お知らせ」タブより「行事日程と工事予定」をご覧ください。

(2024.1.11)

⇒ご鑑賞、御礼申し上げます。

 

「除夜の鐘」をつきます。23:50~01:00頃。ご参拝ください。   (2023.12.31)

⇒ご参加・ご参拝ありがとうご

 ざいました。(2023.01.1)

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。