私は再び東京に住むようになって、実に47年ぶりの春を迎えました。7階に住んでおりますので、見晴らしがよく、窓からいろいろな桜を見ることができました。今は木々の緑が濃くなっています。
今年の秋もエジプトの大学に赴任する予定です。イスラムの若者の中で日本文化の授業をします。仏教について彼らが驚くことは因縁の論理です。何人かの学生に「それはおかしい」と詰問され続けました。また多くの学生は私と彼らとのやり取りを微笑しながら聞いていました。あとで「とてもおもしろかった」と言われました。文化交流、お互いの理解はそう簡単にはいきません。
【2014年3月・4月の活動】
著書の出版
ここでは、私の本年3月・4月の出版などについて記します。
《著書》
➀「関東の親鸞シリーズ」➉『五十六歳の親鸞・続―北条氏の家族の悲劇―』
‘親鸞は庶民の味方である。そして権力者に抵抗し、これと戦った’――「権力者と戦う親鸞」。第二次大戦後、親鸞聖人についてこのようなイメージが広まりました。でも、今となってはこのイメージは誤りであったとしか言いようがありません。親鸞聖人が一生の師と仰いだ法然は権力者と戦ったでしょうか。とんでもない、法然は朝廷の権力者である九条兼実と大変親しかったのです。また私たちは‘権力者’といえば、残虐非道、庶民から年貢をむしり取る血も涙もない人間と思ってこなかったでしょうか。しかし彼らにも権力者に生まれた苦しさや人生の哀歓があったのです。本書では幕府の権力者である北条時政・政子・義時・泰時についてそれぞれの家族に関する悲しみを述べました。
なお九条兼実の家族の哀歓については、拙著『関白九条兼実をめぐる女性たち』(自照社出版、2012年)で述べました。
《論考》
➀「高田の真仏と明星天子」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第7回)
『学びの友』42巻7号(2014年3月号)
下野国高田を訪ねた親鸞聖人が出会ったとされている明星天子。それについて語られている内容、および聖人と真仏との出会いを考えてみました。
➁「山伏弁円と板敷山に思う」
『中央仏教学院紀要』第25号(2014年3月)
親鸞聖人を憎み、板敷山で殺そうとした弁円。しかし稲田草庵を訪ねた結果、聖人の門に入ることになりました。この間のいきさつについて、従来は弁円は悪い人間であったという観点でのみ評価されてきました。しかし果たしてそうだったのだろうか、という観点から検討しました。
➂「善明と善徳寺」(親鸞の家族ゆかりの寺々 第13回)
『自照同人』第81号(2014年3・4月号)
善明は如信の弟ともいう説のある人物です。茨城県北部、浄土真宗の歴史では常陸奥郡として知られている地域で活躍しました。その善明は茨城県常陸大宮市鷲子の善徳寺の第三世でもありました。本稿では善明、奥郡の門徒、善徳寺に残る親鸞坐像などについて紹介しました。
➃「善念と桜川」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第8回)
『学びの友』42巻4号(2014年4月号)
善念は北条氏に滅ぼされた和田氏(三浦氏)の一人とされる人物です。彼は常陸国の桜川で親鸞聖人と出会い、背負って川を渡ってあげたことが縁で導かれたといいます。
【連載・親鸞聖人と稲田⑼】
―恵信尼さまと三善氏(上)―
➀ 西念寺本堂の「恵信尼坐像」
親鸞聖人の妻として恵信尼さまがとても有名です。西念寺本堂には、内陣の中央に本尊阿弥陀如来立像が安置されています。その右奥には親鸞聖人坐像が安置されています。そして左奥は、なんと恵信尼さまの坐像が安置されているのです。私はこのような浄土真宗寺院は見たことがありません。
本願寺系の浄土真宗寺院では、右奥に親鸞聖人の画像、左奥に蓮如の画像が掛けてあるのが一般的です。大谷派では蓮如の代わりに教如の画像が掛かっていたりします。しかし北関東、特に茨城県の北部地方では、右奥に親鸞聖人坐像が安置してあることが多いです。画像ではなく、木造の坐像です。そして左奥は開基の坐像の場合が多いです。開基というのは事実上その寺院を開いたとされている僧です。
ところが西念寺では右奥に親鸞聖人坐像が安置してあるのはともかく、左奥は恵信尼さまの坐像なのです。まったく、ここ西念寺だけの特色です。西念寺、ひいては稲田で恵信尼さまがいかに大切にされてきたかということを示すものでしょう。恵信尼さまは越後で二人の子どもを生み、常陸へ移ってきてから三人生みました。また親鸞聖人の念仏布教という目的に協力しました。恵信尼さまは関東でとても評判がよかった気配です。
西念寺本堂の恵信尼坐像は、室町時代に制作されたものと推定されます。穏やかな表情の老年の女性です。尼頭巾(あまずきん)と呼ばれる、顔だけ出して頭から首、肩まで被う頭巾を着けていますので、明らかに出家した姿を表わしています。
➁ 「恵信尼画像」
西念寺には、同じく室町時代に描かれたと推定される恵信尼さまの画像が伝来されています。掛軸の形で、絹の布に絵の具で描いてあります。この描き方を絹本着色(けんぽんちゃくしょく)といいます。絹の織り方は時代によって異なることがありますので、その織り方を調べることが制作年代を推定することにつながります。絵を描いてあるのが紙でしたら、紙本(しほん)といいます。
この「恵信尼画像」は、向かって右を向いて尼頭巾を被った、数珠をつまぐっている、前述の坐像よりさらに年配と思われる女性の姿です。やさしそうな、また苦労を経てきたような表情をしています。
この画像には二ヶ所に文字が書いてあります。縦長の小さい方には、「恵信禅尼」と書いてあります。いわゆる札銘(ふだめい)です。大きい方には五行にわたって次のように書いてあります。
生死(しょうじ)の家には
疑(うたがい)をもて所止(やむところ)
となし涅槃(ねはん)の
城には信を
もて能入(よくいる)とす
「この世はほんとうのものではないと疑って、住むことを止めましょう。極楽には信心を持つことによって入ることができます」という意味です。こちらの区画を色紙型(しきしがた)といい、文章を讃(さん)といいます。あわせて色紙型讃です。
またこの画像の恵信尼さまの着物には、日野氏の紋「下がり藤」が描いてあります。恵信尼さまは三善氏の出身であることは明らかですから、当時の慣例に従って三善氏の紋が描かれるべきだったのです。それなのに「下がり藤」が描かれているのはなぜか。研究課題です。
西念寺の「恵信尼画像」は、現在知られている限りは最古の恵信尼さまの画像です。貴重な画像です。ただとても痛んでいて、壁などに掛けて見ることはとてもできません。画像を開いたり巻いたりするだけで絵の具が剥がれ落ちる危険性が大きいのです。
➂ 恵信尼さまの出身は京都の貴族
恵信尼さまの出身については、もともと京都の貴族三善氏説と越後の豪族三善氏説とがありました。しかし第二次大戦後、越後豪族出身説がもてはやされ、定説のようになっていました。京都貴族説を主張する研究者もいましたが(赤松俊秀『親鸞』吉川弘文館、1961年)、ほとんど無視されていました。しかし、やはり貴族出身説を採用するべきでしょう(拙著『恵信尼―親鸞とともに歩んだ六十年―』法蔵館、2013年)。
親鸞聖人が35歳で越後へ流された時、恵信尼さまも一緒に越後へ下向しました。そこで5年弱、流罪は赦免になりましたが聖人は京都に帰りませんでした。恵信尼さまも同じでした。さらに2年後、二人は関東を目ざして子ども二人を連れて移住しました。親鸞聖人42歳、恵信尼さま33歳、娘の小黒女房8歳くらい、息子の信蓮房4歳でした。いずれも数え年です。幼児二人を連れての旅はそう簡単ではなかったはずです。この一家は、稲田郷の最上位の領主である宇都宮頼綱に手厚く迎えられたであろうと考えられることは、この連載でも以前に述べました。
では恵信尼さまという人はどのような女性だったのでしょうか。またその実家である三善氏とはどのような家で、いかなる雰囲気の家だったのでしょうか。それを検討することは、恵信尼さまの人格や行動を考えていく上で重要なことと私は判断しています。この連載の今回と次回で、そのことについて検討していきたいと思います。
➃ 三善氏とは?
三善氏というのは帰化人系の氏族とされています。それも朝鮮半島の高麗から来た人々と、中国の漢族に由来する人と二つの系統がありました。しかし平安時代に三善清行(きよゆき)という大学者で政治家でもあった人が出てから、この二つの系統の三善氏は、その後いずれも清行を先祖として崇拝するようになりました。
┌――康光――康信
│ 鎌倉幕府問注所執事
三善清行…(中略)…為長……為康……為教――恵信尼
算博士 算博士 越後介
越後介 越後介
➄ 三善清行 承和14年(847)生―延喜18年(919)没
清行は昌泰3年(900)に文章博士(もんじょう・はかせ)に、その翌年には大学頭(だいがくのかみ)となりました。文章博士というのは貴族の若者の教育機関である大学で中国の古典を教える教授です。この学問を紀伝道といいます。大学頭は大学運営の責任者です。政治的な能力もなければ務まりません。また清行は醍醐天皇に「意見封事十二箇条(いけんふうじ・じゅうにかじょう)」を提出して、地方政治の乱れを改善するように上申したことで知られています。
三善家は中級の貴族です。彼らは、誰か人事権を握る上級貴族に取り入らないと絶対に官職はもらえません。清行は左大臣藤原時平の保護を受けていました。時平が延喜元年(901)にこれまた大学者で政治家でもあった右大臣菅原道真と争い、九州の大宰権帥に追いやった時、清行が時平のために大いに働いたそうです。
➅ 三善為長 寛弘4年(1007)生―永保元年(1081)没
清行の子孫に三善為長という人物がいました。彼は算博士(さんはかせ)で、越後介など数か国の介(国司の次官)も歴任しました。算博士は、大学で算道(数学)教える教授です。為長は算道の大家として知られていました。
➆ 三善為康 永承4年(1049)生―保延5年(1139)没
為長が越後介であった時、隣りの越中国の豪族射水(いみず)氏のまだ十代の、向学心に燃えた若者が為長にあこがれました。数年後その若者は京都に上って為長に入門しました。為長はその若者があまりに算道その他法律、仏教学等に優れているので養子にして跡を継がせました。それが三善為康です。系図の上では恵信尼さまの祖父に当たります。
為康も算博士および越後介に就任しています。ただ地方出身の養子だったためか、出世はとても遅れました。その分、為康は法律を勉強して中級官吏として生きて行く方向も模索しました。平安時代の詩文や公私の各種文書を分類して何冊もの本にしました(『朝野群載(ちょうやぐんさい)』)。この本は役人たちが先例を調べたり、文書を作成したりする時にとても便利でした。今日でも平安時代の行政を知るために必須の史料なのです。
また、官職や政務・儀礼を辞典的に解説した『懐中暦(かいちゅうれき)』と『掌中暦(しょうちゅうれき)』があります。現在では失なわれているのですが、鎌倉時代に両書をもとに編纂された『二中暦(にちゅうれき)』が残っています。数学書として『三元九紫法(さんげんくしほう)』、仏教書として『拾遺往生伝』『後拾遺往生伝』『六波羅蜜寺縁起(ろくはらみつじ・えんぎ)』『叡山根本大師伝』その他があります。為康の子孫は、為康の敷いた路線、すなわち学問(算道)と政治補佐(法律)を家の特色とし、その習得に懸命に励みました(拙著『親鸞をめぐる人びと』「三善為康」の項。自照社出版、2012年)。
➇ 為康の信仰―予告
『新修往生伝』の「算博士為康」の項に為康のことが記述されています。それによると、為康は若いころから観音菩薩を信仰してきました。五十代に入るころからあつく阿弥陀仏を信仰するようになりました。これは恵信尼さまの信仰を考える上で重要なことと思われます。次回に詳しく述べたいと思います。