私は横浜の朝日カルチャーセンターで「北条時政の政治と信仰」という講座を開いています。私は、鎌倉幕府の執権として鎌倉時代150年間にわたって顕著な足跡を残した北条氏について、その信仰をまとめてみたいとずいぶん前から考えていました。それは茨城大学に在任中からのものです。その時期にはかなり力を入れて研究を進めました。論文も何本か書いています。ここへ来てまた本格的に始めました。
すると学問は日進月歩、たゆみなく前進するものだということを実感する、つい最近の新しい研究成果に出会いました。一つは都市鎌倉の中心の通りは若宮大路ではなかったという研究成果です。
従来、都市鎌倉は京都の朱雀大路にならって南北に大通りを設けていたと考えられていました。それが若宮大路ということです。現在の段葛のある位置です。最近の研究では、鶴岡八幡宮の三の鳥居と、海岸の方から段葛(だんかずら)を進んでその終点との間を東西に走る道路が鎌倉の中心の通りだったのだそうです。段葛が源頼朝の時代から設けられていたことは明白です。でも街の中心の、メインストリートではなかったのです(秋山哲雄『都市鎌倉の中世史』歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2010年)。
また、源頼朝は14歳の時伊豆国に流されてきました。住んだ所は伊豆半島中部(中伊豆)の蛭ケ小島だ、というのがほぼ定説になっていました。やがて東海岸の伊東祐親の屋敷に出入りして、その娘と恋仲になって一児を成したけれども、京都から帰国した祐親に命を狙われ、その後、今度は北条時政の家に出入りするようになったという話でした。しかしそうではなく、頼朝が流されたのは祐親の屋敷であったというのです(坂井孝一『源頼朝と鎌倉』人をあるく、吉川弘文館、2016年)。いずれもかなりに説得力のある説です。
西念寺とその付近の調査研究もさらに進めたいものです。
【2016年5月6月の活動】
著書の出版:ここでは私の今年(2016年)5月・6月の著書などについて記します。
《論考》
①「人生の恩人」『遠州』600号特別記念号(2016年5月1日)
論考というほどでもないのですが、私の40代のころにお世話になった人について書きました。
②「悪五郎という名の性信」(連載「悪人正機の顔」第10回)『自照同人』第94号(2016年5・6月号、2016年5月10日号)
後に二十四輩第一と称された性信。鎌倉時代末期のその坐像(群馬県板倉町・宝福寺蔵)を対象にして、「悪人」性信の念仏による心の変化をその表情から読み取ろうとしたものです。
【連載・親鸞聖人と稲田(22)】
─「かさまの念仏者のうたがひとわれたる事」・続々─
① 「弥勒仏」の掲載
「かさまの念仏者のうたがひとわれたる事」は親鸞の数少ない自筆の書状の一つです。「かさま(笠間)」という地名が出てくる唯一の親鸞書状でもあります。
この書状の中に、次の文章があります。
信心の人を、真の仏弟子といへり。この人を正念に住する人とす。この人は摂取し
すてたまはざれば、金剛心をえたる人と申なり。この人を上上人とも、好人とも、妙
好人とも、最勝人とも、稀有人ともまふすなり。この人は正定聚のくらゐにさだまれ
るなり、としるべし。しかれば弥勒仏とひとしき人とのたまへり。これは真実信心を
えたるゆへに、かならず真実の報土に往生するなりとしるべし。
この部分は真実の信心について「かさまの念仏者」の質問に答えている文章です。本願の念仏への真実の信心を得た人を、「真の仏弟子」「上上人」「好人」「妙好人」「最勝人」「稀有人」と讃えています。興味深いのは、そのような人を「弥勒仏とひとしきひと」として「真の仏弟子」等の褒め称え言葉をまとめる形で表現していることです。
② 弥勒菩薩
親鸞の書状では、弥勒は「仏」と表現されていますが、本来は弥勒「菩薩」とあるべきです。梵語(サンスクリット語)ではマイトレーヤと称します。弥勒に関する経典『観弥勒菩薩上生(じょうしょう)兜率天(とそつてん)経』・『弥勒下生(げしょう)経』・『弥勒大成仏経』などによれば、弥勒菩薩は兜率天で修行しており、釈迦没後567000億7万年にこの世に下って悟りをひらき(弥勒下生)、人々を救うとされています。経典類では、その年数は5億6700万年になっているのですが、後代に56億7000万年とされてしまいました。
実は経典類では兜率天での弥勒の寿命は4000年となっています。兜率天の1日は人間世界の400年に相当するのだそうです。それで計算すると5億6700万年になるのです。
いずれにしても、釈迦は現在仏、弥勒は未来仏と把握されています。弥勒はまだ修行者である菩薩なのですが、はるか遠い未来の下生を先取りする形で弥勒仏または弥勒如来と呼ばれることもあります。欧米の仏教学では、マイトレーヤ・ボディサートバ(弥勒菩薩)ではなく、マイトレーヤ・ブッダ(弥勒仏)と呼ばれることがむしろ普通です。日本ではむろん、例外を除いて、弥勒「菩薩」と呼ばれることが一般的です。それなのに、親鸞は「かさまの念仏者のうたがひとはれたる事」の中で「弥勒仏」と表現しているのは興味深いです。
③ 弥勒仏の彫像
如来形の弥勒は、数少ないながら、いくつかの例が見られます。当麻寺金堂の弥勒仏坐像・東大寺の弥勒仏坐像・興福寺北円堂の弥勒仏坐像などです。
④ 笠間市の弥勒仏立像
ところが笠間市付近から栃木県にかけて、鎌倉時代には弥勒仏信仰が広まっていたのです。その証拠として、特に笠間市内にある弥勒協会蔵の木造(寄木造)像高一七五・二センチの弥勒仏立像があげられます。漆箔像でもあります。漆箔像とは、漆を塗った上に金箔を捺した像です。その仏像を泥仏(どろぼとけ)ともいいました。像内胸部に次の墨書銘があります。
宝治元年丁未四月二十四日
敬白
弥勒如来
右志す所は、信心大施主
藤原時朝并に御所生の愛子等
現世安穏・後生善所の願い也
敬白、并に
信心大奉仕⬜⬜⬜現世福徳⬜⬜⬜寿命并に所生愛子等 如是
念⬜後生善所⬜⬜正念往生⬜⬜
注:読みやすいように、仮名交じりに読み下しました。
大施主として本像を制作した藤原(笠間)時朝は、宇都宮頼綱の甥で養子分、笠間郡を与えられていました。戦国時代末まで18代続いた豪族笠間氏の初代です。
┌宇都宮頼綱
├─塩谷朝業──笠間時朝
└─稲田頼重
⑤ 笠間時朝と同じ背丈の弥勒仏像
さらにこの弥勒仏像の右足枘(ほぞ)の内側に次の墨書銘があります。「足枘」というのは、像を台座に立たせるために、足の裏に高下駄の歯のような形を作って、台座の穴に入れる突起です。台座の中に入ってしまいますので、外からは見えません。そしてこの枘の片側または両側に墨書銘を書くことが、まま見られるのです。
⬜⬜⬜️⬜️⬜️⬜️
⬜️時朝同身之
⬜️弥勒并に⬜️⬜️也
つまり、この弥勒仏立像は笠間時朝と同じ身長で制作されたということです。さらに、この弥勒仏立像を拝むことは笠間時朝を拝むことにもなるのです。このような信仰のあり方は珍しいことではありません。親鸞の門弟で横曽根門徒にもそのような例があります。
⑥ 笠間時朝の弥勒仏立像に関する和歌
時朝は、武将として、また歌人としても有名でした。伯父の宇都宮頼綱、実父の塩谷朝業等とともに宇都宮歌壇を形作って世に知られていました。歌人の集団である歌壇には、当時、京都歌壇と鎌倉歌壇が有名でした。そして宇都宮一族を軸とした宇都宮歌壇も有名だったのです。ただしこれは本国の下野国宇都宮での活動ではなく、京都での活動でした。塩谷朝業は第3代鎌倉将軍の和歌の師匠でしたし、頼綱・朝業・時朝はいずれも准勅撰集である『新和歌集』に多くの和歌が収められています。
その『新和歌集』に入っている、次の和歌があります。
藤原時朝あまたつくりたてまつりたる等身の泥仏をおがみ奉りて、 浄意法師
君が身に ひとしとききし 仏にぞ
こころのたけも あらはれにける
返事 藤原時朝
心より こころをつくる ほとけにて
我身のたけを しられぬる哉
「等身の泥仏」とは上述の漆箔の弥勒仏立像のことです。当時の人々の間で有名だったのでしょう。
⑦ 親鸞と弥勒信仰
親鸞は正嘉元年10月10日の書状で
弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひにはまふすなり。しかれ
ば弥勒とおなじくらゐなれば、正定聚のひとは如来とひとしともまふすなり。
と述べています。また『正像末浄土和讃』の中で、次のように弥勒について述べています。
五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし
「弥勒菩薩が兜率天から降りてきて悟りをひらくには56億7千万年もかかります。阿弥陀仏の本願念仏に対してほんとうの信心を得るひとは、いま、たちまちのうちに悟りをひらきますよ」。この和讃では弥勒は「仏」ではなくはっきりと「菩薩」として位置づけられています。また悟りに至る年数の違いも明確に述べています。
親鸞は巧みな論理展開を行ない、笠間地方の念仏者に対して、身近な弥勒仏との親しさを念頭に浮かばせながら信心の念仏を説いたのです。