5月5日は端午の節句。現在では子どもの成長を祝い、またさらなる成長を願う日となっています。元々は女性一般の祭りだったといいます。菖蒲の葉を門前にかけて邪気を払ったそうです。
ところがこの祭りは江戸時代から男の子の祭りに変わりました。菖蒲(しょうぶ)が尚武(しょうぶ)と音(おん)が通じること、菖蒲の葉が剣に似ていることなどから、男の子の成長と健康を祝い祈る祭りになりました。鯉のぼりを立てる習慣も江戸時代から始まりました。鯉は体力的にとても強い魚ですし、滝をさかのぼったりするのが困難を克服するのに似て、それらを男の子に期待したのでしょう。もっとも鯉のぼりを立てる習慣は、主に関東に特徴的だったそうで、関西には見られなかったのだそうです。
鯉は食用としても親鸞の鎌倉時代でも好まれた魚でした。日本列島に一般的な魚ですし、清流でも濁った沼地でも大きく育つので、食用として歓迎されたのでしょう。ちなみに鯛は下賤の魚とされ、好まれませんでした。江戸時代になってから、「おめでたい」という言葉の連想によって「たい(鯛)」がお祝いの席に出されるようになり、人気第一の魚になったのです。
鯉かどうかはわかりませんが、親鸞も魚の刺身を食べたことが知られています。覚如の『口伝抄』の「一切経御校合の事」の項に、
(親鸞は)魚鳥の肉味等をもきこしめさるること、御はばかりなし。ときに膾を御前
に進ず、これをきこしめさるること、つねのごとし。(中略)またあるとき、(中 略)袈裟を御着服ありながら御魚食あり。
「親鸞は魚や鳥などの肉を、まったく問題にせず召し上がっていました。ときどき魚の刺身をお出ししましたが、平然と召し上がりました。(中略)またある時には袈裟を着しながら魚を食べておられました」。
袈裟のことはともかく、要するに魚や鳥は日常的に食用としていたということでしょう。また四つ足の動物を食べてはいけないという思想も、意外なことに、僧侶・俗人ともにあまり広まってはいませんでした。親鸞も、「自分のために殺したというのでなければ食べてよい」としていました。肉食禁止の思想が広まるようになったのは、江戸時代になってからです。それも、実際にはどの程度実行されていたでしょうか。
【2016年1月2月の活動】
著書の出版:ここでは、私の今年(2016年)3月・4月の著書などについて記します。
《著書》
①『五十九歳の親鸞─帰京の前夜─』関東の親鸞シリーズ⑮、
真宗文化センター(2016年4月9日)
親鸞は60歳のころ、京都に帰りました。その前夜ともいうべき59歳の時の社会・経済状況や、そのころまでの親鸞の親族と姻族(妻恵信尼の親族)について述べたものです。
《論考》
①「相模国の大豪族和田(三浦)義盛の征夷と滅亡」(連載「悪人正機の顔」第9回) 『自照同人』第93号(2016年月3・4月号、2016年3月10日)
親鸞の周囲にいた関東武士たちはどのような顔をしていたのか。そこから彼らの気持を読み取ることができるのではないか。でも彼らの顔を示す彫像は非常に少ないのです。和田義盛の木像は、その顔を示してくれる数少ない例の一つです。本稿では義盛の経歴や気持を探りました。
②「レポートの書き方」
『学びの友』44巻8号(2016年4月1日)
私は中央仏教学院通信教育部(京都・浄土真宗本願寺派の僧侶養成課程【専修課程】お
よび一般人向け課程【学習課程】があります)の真宗史を担当しています。その学校の生徒のためにレポートの書き方をまとめたものです。
③「玉日伝説研究の基本的視点─関白九条兼実を軸に─」
『東国真宗』第2号(2016年4月30日)
親鸞の妻は実在の玉日姫で関白九条兼実の娘であった、という説が依然として根強く残っています。本稿ではそのようなことは歴史的にあり得ないことをあらためて述べました。
【連載・親鸞聖人と稲田(21)】
─「かさまの念仏者のうたがひとわれたる事」続─
① 自筆の手紙の重要性─日蓮を例にとって─
前回にも書きましたが、親鸞の書状は40数点あるとされています。このうち、親鸞自身の自筆(真筆、真蹟)は12、3点です。
鎌倉時代後期の日蓮は、親鸞と活動年代が少し重なります。日蓮が書いたとされている手紙や文献は大変多く、900通近くにもなります。これらは東京の立正大学にある日蓮教学研究所から発行されている『昭和定本日蓮聖人遺文』全5巻に収められています(昭和27年10月初版)。ところがこのうち、日蓮の自筆として認められているのは約半数なのです。あとは門弟やその後の人たちの筆跡です。
私が専門にしている歴史学研究では、使用する史料が信用できるかどうかが命です。信用できない史料にのっとって研究していたということが分かれば、その研究成果はガラガラと崩れます。最も信用できるのは、日蓮研究の場合でしたら日蓮自筆の手紙です。その次には日蓮の手紙を写した写本です。その写本も、いつ、どのいうな事情で写したかを検討しなければなりません。「日蓮が書いた」として誰かが創作することがあるからです。かなり後世になってから創作されることも珍しくありません。その際、事実と異なることが書かれることも多いのです。意図的にそのようにされることも多いです。写本を歴史研究に使うのは難しいのです。むろん、私は写本に利用価値がないと言っているのではありません。利用は慎重になされなければならないと言っているのです。
② 日蓮の「四箇の格言」
文字に書かれた史料を検討していくと、とても興味深いことがあります。それは、特にある僧侶の弟子等が作成した文書や書状に示されていることが多いのです。「その僧侶が書いた思想の内容より、その弟子が書いた文章の方がより分かりやすい。読みやすい。むろん、その僧侶の思想に反していない」ということです。それを同じく日蓮関係で述べてみましょう。それは「四箇の格言」とよばれている文章です。
日蓮が法華経を信ずべきことを説き、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊(念仏を称えれば無間地獄(すきまなく、どこまで行っても尽きない地獄)に堕ちる、禅は天魔(仏道修行を邪魔する魔物)の行為である、真言は国を滅ぼす、律を守る者は国にとっての賊である)と叫んだ」、と日蓮自身が書いた手紙があります。
「念仏」は浄土宗、「禅」は禅宗、「真言」は真言宗、「律」は真言律宗の僧侶たちを示しています。いずれも日蓮当時の鎌倉で勢力があった宗派です。
この攻撃の文章は日蓮の考えをよく示している手紙として知られてきました。日蓮宗ではこの文章は「四箇の格言(しかのかくげん)」と呼んできました。私は高校生の時、日本史の教科書の注に四箇の格言が注に記されていたことをよく覚えています。日蓮の一生が何か感動的に思えました。
③ うまい話には乗らないように
しかし現在、日蓮伝研究の進展によって、「四箇の格言」が記されている手紙は日蓮の自筆ではなかった、という研究結果が示されています。「四箇の格言」は日蓮が発した言葉だったかもしれないけれど、なんと日蓮が書いたものではなかったのです。歴史学研究者としては、もう「日蓮が発した言葉」とするにも躊躇を覚えます。
ところが「四箇の格言」は、まさに日蓮の思想をよく示しているのです。他の日蓮の自筆に示された言葉より、ずっと日蓮らしいのです。日蓮の門弟か誰かが「お師匠様は説いておられないけれども、このように説かれたかったんじゃないか」ということで作り出した気配です。「四箇の格言」はとても分かりやすいですね。
そして日蓮伝研究、つまりは歴史研究はここに落とし穴がある危険性があります。「これは日蓮の思想を非常によく示しているから、日蓮の発した言葉だろう、書かれた手紙は日蓮の手紙だろう」と思いたくなってしまうということです。歴史研究者は冷徹でなければなりません。うまい話に乗ってはいけないのです。うまい話やおもしろそうな話には、二歩も三歩も下がり、冷たい目と頭でその話を判断しなければなりません。
付け加えておけば、日蓮は現在ではこれだけ有名な人物ながら、同時代に日蓮に触れた記録や文書はありません。つまり、日蓮のことは日蓮自筆の書籍・手紙によってしか分からないのです。日蓮の鎌倉での辻説法(実際にはそれはなかったそうです)・伊豆や佐渡への流罪・その後の鎌倉幕府からの呼び出し(幕府の最高実力者平頼綱に丁重に扱われたといいます)などはすべて、日蓮自身の発言によってしか分からないのです。
④ 自筆が残っていない一遍
日蓮と同時代に活躍した念仏僧に一遍智真という人物がいます。法然の曾孫弟子にあたります。踊念仏や時宗の開祖として知られています。この一遍の思想や伝記を知るための史料としては、没後10年目の正安元年(1299)に作成された『一遍聖絵』(原本あり)という伝記絵巻や、その後まもなく作られた『遊行上人縁起絵』(原本なし。写本で伝わる)という伝記絵巻が重要です。しかし一遍自身の自筆書状・書籍等は一切残されていないのです。
絵巻物は、文学研究者からは「架空の物語だろう。それがどうして事実を重んずる歴史研究の史料になり得るのか」と問いかけられます。ずいぶん前に一遍研究を専門にしていた私は、実際、親しい日本文学研究者からこのように尋ねられたことがあります。しかも複数の人たちから。「架空の物語」から「歴史的事実」を取り出すには、それなりの難しい工夫が必要です。
⑤ 伝記の隙間を狙って創作される話
一遍の伝記に関する年表は、基本的には『一遍聖絵』および『遊行上人縁起絵』に示されているできごとをもとにして作成します。当然、1年ごとに記事が書けることはありません。例えば、年表に「文永7年(1270) 一遍、笠間に来る」とあり、「文永11年(1274) 一遍、筑波に来る」という記事が書けたとします。その間は、これらの絵巻物に何も書いていないので年表に書けないのです。
すると不思議なことに、「文永9年(1172)にはウチの寺を一遍上人が訪ねてこられました」という話が現代に伝えられていることがあるのです。それは事実かもしれないし、事実でないかもしれない。でも歴史研究者は、「史料の隙間をぬって新しい話が作られることはよくあるのだ」という前提のもとに研究を進めていかなければなりません。
⑥ 「言い伝えを尊重すること」と「歴史的事実の追求」とは別
私は「言い伝えは尊重しない」とは毛頭思っておりません。それは長い間の人々が大切にしてきた思いですから、尊重すべきであると考えています。ただし、「その言い伝え」すなわち「歴史的事実」であると無条件に了承してしまうことはできません。歴史的事実の追求には、それなりの方法があり手続きがあります。私たちはそろそろ「いい伝え」と「歴史的事実」を分けることに慣れるべきでしょう。
⑦ 写本の問題点、あえて言えば危険性
写本は、自筆本(原本)に比べて研究する上で問題点があります。架空の話(早い話、嘘の話です)が入れ込まれているという危険性です。必ず架空の話が入れ込まれているということではなくて、「入れ込まれているという」前提で慎重に研究していかなければならないという事です。昔の人は(現在の人でも)、けっこう嘘を創作しますから。
⑧ 親鸞自筆の「かさまの念仏者のうたがひとわれたる事」
以上述べてきたことからいえば、「かさまの念仏者のうたがひとわれたる事」に親鸞自筆があるというのは非常に貴重なことです。親鸞83歳の時の歴史的状況がかなりの精度で浮かび上がってくるからです。次回にはそのことについて述べたいと思います。