親鸞の『皇太子聖徳奉讃』に、
倭国の教主聖徳皇
広大恩徳謝しがたし
一心に帰命したてまつり
奉讃不退ならしめよ
とあります。「聖徳皇」とは聖徳太子のことです。その聖徳太子を讃歎しています。また覚如の『親鸞伝絵』に、
建長八歳二月九日夜虎時、釈蓮位夢想の告云、聖徳太子、親鸞聖人を礼したてまつり
ましましてのたまはく、
とあります。聖徳太子が親鸞に敬意を表しているというのです。
聖徳太子は浄土真宗に関心を持つ者にはとてもなじみが深い人物です。それだけではなく、何十年か前までは千円札、五千円札、一万円札のお札に聖徳大子が登場していましたから、社会一般で聖徳太子の名を知らない人はいなかったでしょう(今でも続いているはずです)。
しかしもうかなり前に、聖徳太子が作って発布されたという「憲法十七条」は実在しなかったことが確認されています。聖徳太子も実在しなかった、さらには太子が摂政を務めたという推古天皇も多分に修飾されて作り上げられた人物像だ、また太子より少し後の大化の改新もなかったというのが学界の主流になりつつあります。
ただ後に聖徳太子と呼ばれた人物はいた、その名は厩戸王(うまやどおう)だということで、すでに高校の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」(『詳説日本史B』、山川出版社)と「聖徳太子」の名はカッコ内で記されるだけになっています。
また本年2月14日に文部科学省から発表された次期学習指導要領による中学歴史では、「聖徳太子」の名はなくなり「厩戸王」のみで記載されることになりました。当面、教科書の注には聖徳太子の名が書かれる見込みのようですが。
指導要領がそのように改められるまでには、関係者の深刻な話し合い・検討があったことでしょう。私もかつて高校日本史の教科書作成に参加したことがありますので、その点、よくわかります。
でも近い将来、「聖徳太子の名を知っていて当たり前」という常識が崩れることになるのでしょう。なにせ学校の教科書から消えていくのですから。親鸞の伝記研究・浄土真宗の歴史研究、ひいては日本仏教史の研究もそれに対応していかなければならないということでしょう。
【2017年1月2月の活動】
著書の出版:ここでは私の今年(2017年)1月・2月の著書・論考について記します。
《著書》
①『悪人正機の顔』(東国真宗研究所、2017年1月)
善人に対し、悪人こそ阿弥陀仏がまず救おうとしている対象であるというのが悪人正機説です。ではそれによって救われた悪人はどのような顔になったのか、というのが本書の発想の原点です。
《論考》
①「東国の天地とその勢い」(連載「親鸞の東国の風景」第3回)
『自照同人』第98号(2017年11月・12月号、2017年1月10日)
常陸国を含む東国は経済力豊かなところだったこと。政治力・軍事力は京都の貴族を脅かし、追い越したこと。では、なぜ「常陸国は荒れ地」というイメージが成立したかなどということについて述べました。
②「浄土真宗史研究の方向性」
『親鸞の水脈』特別号(真宗文化センター、2017年1月)
親鸞の伝記を軸とする初期浄土真宗史研究のどの点が問題であったか、またどのような成果をあげてきたか、今後いかなる方向に進むべきかについて述べたものです。なおこの特別号には16点の論考が集まっています。
【連載 親鸞と慈円と青蓮院⑶】
① 慈円、青蓮院の門主となる。
養和元年(1181)春、親鸞は9歳で出家しました。が出家した年です。『親鸞伝絵』に
九歳の春比、阿伯従三位範綱、前大僧正【慈円 慈鎮和尚是也。法性寺殿御息、月
殿長兄】の貴坊へ相具したてまつりて、鬢髪を剃除したまひき。
とあります。【】(カッコ)の中は注(割注)で、【「前大僧正」とは慈円のことです。慈円は藤原忠通殿(法性寺殿)の息子さんで、九条兼実殿(月輪殿)は一番上のお兄さんです】という意味になります。「月輪殿長兄」は、正しい文法的読み方からすれば、「九条兼実殿の一番上のお兄さんです」ということになります。文法的には誤りですが、あまり考えずに文を作ったのでしょう。
この『親鸞伝絵』によれば、親鸞は慈円のもとで出家させてもらったということになります。親鸞を出家させる役、いわゆる戒師は慈円であったということです。ただ従来から説かれているように、親鸞が慈円のもとで出家したかどうかについては疑問が残されています。
慈円が青蓮院の門主(住職)となったのは親鸞出家の半年後です。27歳の時でした。慈円は、この年には僧侶の最高位である法印に叙され、三昧院と成就院という有力寺院の検校(住職)を兼ねました。その3年前の24歳の時には法性寺の座主(住職)にもなっています。父の忠通が出家した寺です。32歳には宇治の平等院の執印(住職)となり、翌年には法成寺(藤原道長建立の寺院)の執印となっています。西山の善峰寺も手に入れています。これらは仲がよかった兄の九条兼実の尽力によるものです。この後、青蓮院だけでも全国にわたる百数十カ所もの荘園・寺院・神社を配下に収めていきました。
また慈円は天台宗と比叡山延暦寺のトップである天台座主に4回も就任しています。つまり慈円は大荘園領主として経済的また政治的に大勢力を得ていったのです。
② 慈円と承元の法難の証空と親鸞
建永2年(1207)、浄土真宗でいうところの承元(建永)の法難が起きました。後鳥羽上皇が熊野参詣中、女官二人が専修念仏者の念仏の会に参加し、上皇に無断で出家してしまったことに憤激して念仏者4人を死罪、他の8人を流罪にしてしまった事件です。この8人の中には専修念仏者の責任者としての法然や、門弟の証空も含まれています。
従来、この事件は国家と既成教団が支配体制を揺るがそうとする専修念仏者を弾圧したものだ、とされてきました。しかし実際のところ、原因はそんな大げさなものではなく、まだ28歳と若かった後鳥羽上皇が、愛人二人の無断出家に怒ったことである(上横手雅敬「建永の法難について」同氏編『鎌倉時代の権力と制度』思文閣出版、2008年)ということだったようです。
この承元の法難で法然は土佐国に流され、親鸞は越後国に流されました。ところが慈円が証空の身柄を引き受け、流罪は免除された形なりました。そのことを後に本願寺蓮如は次のように書いています。蓮如書写の『歎異抄』奥書です。
幸西成覚房、善恵房二人、同遠流にさだまる。しかるに無動寺之善題大僧正これを申
あづかると云々。
「成覚房幸西と善恵房の二人は遠流に決定しました。しかしながら、慈円(無動寺之善題大僧正)が申し出て身柄を引き取り、流罪を免れました」というのです。
この時代の「あづか(預)る」というのは、現代とは異なる意味が含まれています。現代では所有権は移りませんが、この時代は「あづかる」で所有権が50パーセント以上1001パーセント近く移動するのです。完全に100パーセントではありませんが。これは、一つの荘園に、上から本家─領家─地頭または預所─名主という4人の領主がいるようなものです。この場合の「預所」も現代的な意味で領地を預かっているのではなく、領主として収入を得、また年貢を収集する権利を持っていました。
有力者が「あづか」れば刑を免除されるなんて、現代から見ればおかしな法慣習です。しかし当時はあったのです。
証空は慈円に保護され、建暦二年(1212)慈円の譲りを受けて京都西山の善峰寺北尾往生院(三鈷寺)に住むようになっています。それで証空が固めた念仏の教義を西山義といいます。
しかし承元の法難において、慈円は親鸞を「申あづか」ってはくれませんでした。自分が出家させてあげた人間だから、重大な危機には救うのが当然だろう。しかし救わなかったということは、慈円は親鸞の戒師ではなかったのではないか?という意見があります。
③ 親鸞と法兄聖覚
吉水草庵においての親鸞の法兄に、聖覚という人物がいます。彼は承久3年(1221)に『唯信鈔』を著わしました。法然の専修念仏説を理解するためには信心が重要であるという主張が説かれています。親鸞はこの書物をとても重要視しました。
『親鸞伝絵』によれば、吉水草庵において、親鸞は法然の門弟たちに信不退・行不退の二つの座に分かれて入るように提案したといいます。念仏は信心に基づいて称えるのが重要か、多く称えることが重要か、という問いかけです。何百人もの門弟たちが決めかねている中で、聖覚は真っ先に信不退に入った一人でした。親鸞も法然も信不退に入りました。親鸞と聖覚は念仏について共通した理解を持っていたのです。
また聖覚は、法然が亡くなってから六七日(42日)の法要で追善の文章(「表白」)を読みました。後に親鸞はその一部を引用して恩徳讚を作っています。
このように親しい親鸞と聖覚でしたが、聖覚は一面では親鸞とかなり異なる世界に住んでいました。
④ 聖覚、青蓮院の慈円の傘下に入る
聖覚の祖父は少納言藤原通憲、出家して信西入道と名のった人物です。彼は後白河天皇の幼児の養育にあたり、可能性がなかった天皇即位を実現させ、保元元年(1156)の保元の乱で後白河に不満で挙兵した崇徳上皇を倒しました。次の平治の乱では討たれ、乱が静まった後、17人以上いた息子たちのうち、12人が流されるという結果になりました。しかし後白河は大恩ある通憲の子弟をすぐ赦免し、その後大いに引き立てました。
聖覚の父澄憲も信濃国に流されたのですが、まもなく京都に戻されました。以後、京都の安居院(あぐい)に住み、唱導で天下一とされました。唱導とは、法要の場でのお説教、法話のことです。そして僧侶では最高位の法印に叙せられ、権大僧都にもなりました。
聖覚も安居院に住み、父の後を継いだ唱導で日本一とされました。法印にもなっています。彼も後白河法皇の庇護下にあったというべきです。そして誰から譲られたのか不明ですが、元久二年(1205)には桜下門跡領と総称される10か所近くの荘園・寺院・神社群を領地として持っていました。聖覚はその支配を確実ならしめるためでしょう、青蓮院の慈円に寄進しました。慈円はその寄進を受け、改めて聖覚に支配を任せました。すなわち、桜下門跡領は、青蓮院領になったのであり、同時に聖覚領でもあるという状況になったのです。一般的な支配関係でいえば、
本家(青蓮院・慈円)─領家(聖覚)─桜下門跡領
という形になります(拙著『親鸞聖人と箱根権現』自照社出版、2015年)。この場合、実質的な支配権限は聖覚が持っていたようなので、これも一般的な言い方をすれば、桜下門跡領の本所は聖覚であったということができます。「本所」とはその実質的支配権を有する存在のことです。
元久二年といえば、この年の四月に親鸞が法然から『選択本願念仏集』の書写と閲覧を許されています。信不退・行不退のできごとの時期は不明ですけれども、聖覚はもうこの元久二年の段階で明確に慈円の保護を受けています。その上での吉水草庵への出入りであり、信に基づく念仏を受け入れていたのです。当然、親鸞もそのことは承知していたはずです。聖覚(だけではありません)が法然の門に入ったからといって、それは聖覚の生活の一部でしかなかったのです。
ちなみにこの桜下門跡領の荘園群に、関東の箱根権現およびその西に隣接した伊豆山権現(静岡県熱海市)も入っていました。
親鸞は、55、
6歳のころに相模国に布教に入ります(拙著『五十六歳の親鸞・又続─相模国への布教─』「関東の親鸞シリーズ」12、真宗文化センター、2015年。拙著『五十八歳の親鸞─相模国への布教・続─』同13、同年)。根拠地は稲田草庵に置いたままです。稲田から通ったということです。その中で、親鸞は再び聖覚に出会ったのではないか、少なくとも強く聖覚を意識する機会があったのではないかと私は考えています。それは次回に述べたいと思います。