【連載・世界の宗教を学ぶ (6) 神道(その2)】
先回、私は日本の神道の教えの概要にふれました。そこで今回は、その教えの上に芽生えた日本人の意識、文明の特徴を見、神道的な考え方、感じ方を検討してみたいと思います。
(1) 日本人の思いやりの意識
日本人は外国人と話をする際、はっきりと返答しないところがあるため、優柔不断であ
るとかずるいとかと、よく欧米人に言われます。たしかにはっきり言える場合にそう言わないならそうでしょう。しかし、もしストレートにそう言った場合、相手をひどく傷つける場合には、日本人はそこで躊躇するのです。言葉を選びそれとなく、あるいは言葉を使わず目でものを言う、時には嘘をついてまで真意を伝えようとします。欧米人にはそのあたりの日本人の繊細さが分からないのです。顔で笑って心で泣いてなどというと二重人格だと受け取ってしまうところがあります。人間関係の心構えと意識が違うのです。
人間関係だけではありません。自然に対する心構えも違います。庭園の造り方に例をとってみましょう。ヨーロッパ大陸の人々は自分の好みをストレートに出し、たとえばバルコニーに向かって真っすぐに道を造ります。そして左右対称にするため、木々の枝を丸や三角に切りそろえてしまいます。ヨーロッパの名園と言われる庭は大体そうです。日本人はどうでしょうか。すでに生えている木々の気持ちを聞き、自分の気持ちを考え、相談しながら大体において中間の立場で決める。つまり欧米では自然物の気持ちは聞かない。人間にとって美しければ美しいのです。日本の場合は相手の自然の気持ちを汲み、一体になったとき、名園が生まれるのです。というより自然の気持ちがすべてになり、おのれの気持ちが無になったとき、庭は無限の宇宙になり、真の美が出現するのです。
自分を主張するところに人間の主体性を見出す欧米人と、自分を捨てて無心となるところに人間の主体性を見出そうとする違いです。一口に「思いやり」と言っても、欧米人の「思いやり」と日本人の「思いやり」は違うのです。その背景はどこにあるのでしょうか。
(2) 思いやりの根源
よく知られているように、欧米人はイエスかノーかのいずれかで答えるように返答を迫ります。だからそのどちらかで返答しないと日本人は優柔不断でずるいと決めつけられてしまうのです。しかしイエスとノーの二つの選択肢だけで人間の複雑な心の動きを表現し切れるのでしょうか。単に自分の判断だけで返答できれば簡単かも知れません。しかし先にも述べたように日本人には他人あっての自分、自然あっての人間という意識がその深層にあるのです。ならば返答も簡単にはできません。限りなくイエスに近く返答しようと思ってもイエスと言えない。限りなくノーに近くてもノーと言い切れない。そこで何も返答しないことによって真意を伝えようとするところさえあるのです。このような心情を思いやることなく、イエスかノーか、マルかバツか、どっちなのだと迫るほうが短絡であるとも言えます。日本人はイエスとノーの中間で揺れ動く気持ちを大切にするのです。
(3) 中を排する欧米人、中を大切にする日本人
欧米人がイエスかノーかで意思表示を迫るのは、彼らの考え方の原理に「排中律」というものがあるからです。つまり「同一主語については、同一客語を肯定するか、否定するか、いずれか一つでなければならない。肯定も否定もせず、その中間に立つことを許さない」という原理があるからです。つまりはっきりイエスと肯定するか、ノーと否定するかのどちらかでなければならない。彼らには明晰で判明であることが正しさの基準になるのです。
(4) 文化の違いを生む
このような発想の違いは、言語・文化・芸術・生活などのあらゆる面に影響を及ぼすことになります。日本には「行間を読め」・「以心伝心」・「不立文字(ふりゅうもんじ)」などという言葉があります。最も深い意味は言葉や文字であらわせないというのです。だからそれを「察する」のであり、「悟る」のです。しかし欧米人にとっては、言葉は明晰でなければならず、微妙で奥床しい表現などはあまり重視されません。
感覚的な面でも、たとえば日本人は十五夜よりも十三夜や三日月に親近感をもちました。はっきりしすぎた月よりも朧(おぼろ)月を好みました。ところが欧米人にとっては冴えわたったくっきりとした満月がもっとも美しいのです。絵に例をとっても、日本人は色を塗りすぎず空間を生かす事によって無言の意味込めようとし、墨の濃淡によって真っ黒でも真っ白でも表現できない繊細な心の動きを描こうとしたのです。しかし欧米ではキャンパスに絵の具を塗りこめて自分の意識をできるだけはっきりと表現しようとしました。
(5) 一神教と多神教
ではなぜこのような違いが生まれたのでしょうか。その根源に、実は宗教的な発想の違いがある点を私は指摘したいのです。欧米人の意識の基幹には一神教的キリスト教があり、日本人の意識の基幹には多神教的な神道があるのです。一神教、すなわちただ一人の神を信じる意識には、正しいものは一つ、という考えが生まれ、神は一人ではないという意識には、正しいものは一つとは限らないという考えが生まれます。だから日本人は、正しいのは私だけとは限らない、あの人にはあの人の考え方があるのでは?と考えてしまい、相手の立場にも立とうとするのです。ですから即答できない、というより即答を控え、相手に気を配ろうとするのです。自分だけの判断に偏ることをよしとしないのです。「不偏不党」「不即不離」という言葉もこのような意識から生まれてきたと思えますが、いずれにせよキリスト教的択一性の思想と神道的な包容性の思想を追究することによって、この問題をさらに検討してみましょう。
(6) 択一と包容
対立を超え、あらゆるものを包容し、判断に際しては当事する者の心に気を配り、日本人はその良さを汲もうとしました。一寸の虫にさえ五分の魂があると言いました。木には「コダマ」、水には「ミズタマ」があると言いました。人ひとりひとりにそれぞれの思いがあり、価値観も多様です。神も多神であり、日本のもう一つの宗教の仏教も諸仏といわれるように多神教です。正しいものは一つしかないという発想ではありません。だから、すべてを本人の理性だけで判断し切ることには危険があると考えるのです。
仏教伝来にあたって日本人は仏教の仏を「客神」とも呼びました。これを排除しようとはしませんでしたし、仏教のほうも神道を征服しようとはしませんでした。多少の摩擦はあったのですが、それは政治的な立場でのことであって宗教的な紛争、戦争にまでは至りませんでした。むしろ神仏習合の現象さえのちにおこることになったのです。同一の境内に寺と神社が共存し、今でも参拝者は双方に参詣しています。すなわち拒否の精神ではなく共感の精神がその基底に存在し、択一ではなく包容の精神が確立される基盤があったのです。
深く大きな心をもち、人間の心をも含めてあらゆる生きとし生けるものの魂を考え、判断すること、この日本宗教のもつ思いやりを現代の日本人は再確認し、その精神を世界に向かって訴える必要があるのではないでしょうか。極端な経済観に偏り、世界の生態系を狂わせてまで独走する日本の大人たち、不満があると人の気持ちを考えず、バッシングやいじめに走る一部の若者たちを見るとこの点を痛感します。
さて、これで「世界の三大宗教を学ぶ」「世界の宗教を学ぶ」というテーマで続けて参りましたシリーズをひとまず終了させていただきます。ご愛読、ありがとうございました。
次回からは新しいテーマで連載させていただければと念じております。