【連載・世界の宗教を学ぶ (3) 古代ギリシアの宗教】
先回は道教について学びましたが、今回はギリシアにおこり、ゼウスを中心にした神々が信じられた古代ギリシアの宗教について学んでみたいと思います。
(1)一神教との違い
一口に古代ギリシアの宗教といっても、とても複雑な内容と長い歴史をもっていますので、ここではホメロスの作といわれ、オデュッセウスの漂泊や彼の不在中に妃のペネロペに求婚した男たちへの報復を描いた長編叙事詩『オデュッセイア』を取り上げ、この作品に見られる宗教的な特徴を指摘することによって、古代ギリシアの宗教の一面に触れてみたいと思います。
この作品が『旧約聖書』『新約聖書』『コーラン』などの一神教の聖典と決定的に違う点は、神の考え方にあります。たとえば、神に捧げものをするとき、人間は「神々より英知を授か」るといいますが、この英知は人間だけでなく神々にも与えられるというのです。女神アテナは最高神ゼウスに次のようにいっています。「お心のうちなるお考えをお教えくださいませ。さらに禍いなる戦いと恐ろしいどよめきを惹き起こされるお考えか、それとも両方に和解をお授けなさいますか」。神が神に教えてもらおうとしているのです。一神教の神とはまったく違います。超越的な神ではなく、自然で人間的な神であるともいえます。
ですから、神に逆らおうとすれば、ちょうど人間が裏切り者に対して仕打ちをするように、神もまた人間を破滅させようとするのです。「ゼウスがわれらに破滅の禍いを用意しつつあったのだ。…だが、わしは、神の悪意を知っていたから、従う舳艫(じくろ)を並べた艦隊と共に遁れた」という記述があります。神の意志に従わなければ仕打ちを受け、徹底的に破滅させられ、悪意さえもたれるというのです。 一見一神教における神の試みに似ているようにも見えますが、これは神の愛や慈悲によるものではありません。あくまで神の悪意なのです。人間が抱く悪意と基本的に変わりません。ギリシアの神は人間のように善意も悪意も共にもつ存在なのです。ということは、ギリシア人の宗教の歴史はギリシア人の歴史でもあると考えられます。神と人間の上下関係は、究極においては人間の上下関係が投影された面が濃厚だといえるのです。このように考えてみると、おのずからギリシアの宗教の特徴が見えてくるように思われます。この点を確認しておき、このような角度から古代ギリシア宗教の神観について、一歩踏みこんで検討してみたいと思います。
(2)神観
まず神観について注目すべき点は、古代ギリシアの神々は人間の成り得る存在であるという点です。たとえば、主神ゼウスとの間にディオニュソスを生んだテバイの王女セメレの死後、そのディオニュソスを育て、ゼウスの妻ヘラの嫉妬にあい発狂してしまいましたが、のちに海の神になったイーノー・レウコテエーという女神について次のように描かれています。「この女神は以前は人間の言葉を話す乙女であったが、今は海原で神々の仲間入りを許されている」。人間は絶対に神には成れないという一神教とは根本的に違う発想に立っているのです。
また神々は人間の前に姿を現わすというのです。トロイア出征から帰ってこない父オデュッセウスを母と一緒に待つ間、横暴をきわめた母ペネロペへの求婚者たちを二十年ぶりに帰った父とともに倒したことで知られるテレマコスが、父に「広いみ空にお住まいの誰か神さまがこの家においでになるに相違ありません」と語った言葉があります。このような言葉には、偶像崇拝を禁止したり、神と人、神の国と地上の国を厳格に区別したりする一神教的な発想はありません。
さらに神々には、支配力などの点で優劣があると考えられています。たとえばゼウスの子ヘルメスが、女神カリュプソに次のように語るところがあります。「ここに来たのはわたしの意志ではなく、ゼウスの命令です。誰が自分でこんなに遠い海の道を飛んで来るものか。…だが、アイギスの君ゼウスのみ心にそむき、遁れることはほかの神々の誰にもできないことなのだ」。ゼウスの心にそむくことはできないので、いやいやながら来たというのです。そこには優劣の発想がうかがえます。
さらには、神々の能力には限界もあるのです。一神教の神のように全知全能ではないのです。たとえば火と鍛冶の神ヘパイストスが、寝台を「やぶくことも解くこともできぬ網を打って造った」が、「それは蜘蛛の糸のように細いので、人間はおろか、幸多い神々にも誰にも見えなかった」という記述があります。すべてを見通す一神教の神ではないのです。人間よりは能力があるとしても、無限の能力をもっているわけではないのです。神といえども人間を超越した存在ではなく、人間の延長線上に位置づけられる存在であるといえましょう。
またギリシアの神々は、普通の人間のように行動します。たとえば、先にあげた女神カリュプソは男性神に対して「まあ、なんという情知らずの、誰よりも嫉妬深い方々ですこと、男神様方」といっていますし、オデュッセウスの貞淑な妻であったペネロペは「神様方はわたくしたち二人が一緒に住んで青春をたのしみ、老年の境に達するのをねたんでお許しになりませんでした」といっています。神々は一般の人間のように嫉妬もするのです。ゼウスの兄で海神であり、大地の神でもあったポセイドンは、息子の目を見えなくされたことを怒り、恨み、次のようにいっています。「オデュッセウスよ、……怒り、恨みに思っている大地をゆるがす神の目をおまえはのがれることはできまい」。怒りにまかせて害を与えることもあるわけです。
このような点からわかるように、ギリシアの神々は基本的には人間と同じように考え、行動する存在として発想されていたといえます。
(3)信仰観
では最後に、神に対する信仰観に触れてみたいと思いますが、ある長老が次のように国王に話すところがあります。「あなたは、尊ぶべき嘆願者の味方なる雷霆(いかずち)をめずるゼウスに酒を注いで供えるべく、従者たちに新たに酒をまぜるように命ぜられるがよい」と。ゼウスは嘆願者の味方であるというのです。神を尊び、酒を供えれば嘆願に応じてくださるというのです。供えものをして正直に嘆願すれば、神はこれをかなえてくださると信じるその気持ちの中に生まれてくる信仰であるという特徴が、古代ギリシア宗教の信仰の特徴としてまず指摘できます。
また神々は、嘆願者の望みに応じるだけではなく、さらに返礼まで与えてくださるといいます。たとえばアテナは、ゼウスの兄ポセイドンに次のように祈ります。「まずネストールとその子らに誉れを授け、ついでこの見事な百頭牛犠牲祭(ヘカトンベー)をめでて、そのほかのすべてのピュロス人に恵みにみちた返礼を与え給え」。このように心をこめて祈り犠牲を捧げれば、神は必ず現実的な返礼を与えてくださると信じる気持ちの中に生まれる信仰であるという特徴も考えられます。
しかし注目すべきは、祈っても聞き届けられない場合もあるという点です。オデュッセウスがゼウスの子アテナに向かって次のように祈るところがあります。「お聞きください、アイギスの君ゼウスのお子、無敵の君よ、誉れ高い地震の君がわたくしを打ちひしいだ時、海原で難破しているわたくしに耳をかしてはくださいませんでしたが、こたびはお聞きとどけくださいませ」。全能で絶対的な愛をもつ一神教の神であるなら、いつどんな場合でも耳を傾け聞き届けてくれるはずです。しかしギリシアの人間的な神々には耳をかさない場合もあるというのです。したがって、このように嘆願すれば聞き入れられる場合もあるがそうでない場合もあると自覚し、聞き入れていただけるように神を畏れ、信じる態度の中に生まれる信仰でもあるといえます。
このように考えてくると、古代ギリシアの宗教はとても人間的であり、神と人間の間には根本的な異質性はなく、むしろ同質性が考えられ、信仰も多神教的な特徴を濃厚にもつと考えられます。