【第7回】浄土論—仏法は宗教なのか?—(前半)

筑波大学名誉教授 伊藤益

写真とキャプションは当HP管理人

 

 わたくしどもは、身のまわりの個々の物体を「物」と呼び、それらは実在すると素朴に信じています。この机、このコップ、このペン等々。ですが、この国の古語(上代語)にまでさかのぼると、漢文字表記「物」が確定される以前の、いわば原初の語「もの」は、一つ一つの具体的な物体という謂(いい)ではなかったことがわかります。「もの」とは、いまだ個物として限定される以前の何か、言ってみれば、漠然たる流動性それ自体、すなわち、人智をもってはっきりととらえられない、「用(はたら)き」のようなものでした。『萬葉集』などの漢文字の音訓を借りて表記された古文献を見ると、「もの」は、時に「鬼」「幽」などと記されていることがわかります。得体の知れない、しかも、人智を超えるがゆえに不気味な力をもつ何かとして、古代人は「もの」をとらえていたということでしょう。近代以後にもなお残映をとどめている情緒表現に、「ものがなしい」「ものさびしい」といった言辞があります。明確な理由づけのできない哀しみや淋しみを、近代人はそのように言い表わしているわけです。そうした表現に心情をゆだねざるをえないこと自体が、「もの」の不定性を示していると申せましょう。特定されえない「もの」が、何の基体によっても支えられないままに、この世界のなかを漂っているという感覚を、わたくしどもは、いまもいだきつづけているのではないでしょうか。

 「もの」は、「ことば」のなかに滲透してゆきます。人間の思想は、「ことば」において整序への端緒を得た「もの」にほかならないとも言えます。わたくしどもは、「ことば」を、思考や感情表現のための道具ととらえる傾向にあります。が、そのような言語観は、根本的にまちがっています。考えや情がまずあって、それらに「ことば」をあてはめるということは、実際にはありえないからです。考えや情は、「ことば」を媒介としてではなく、「ことば」のただなかで成り立つのです。もし、「ことば」のなかに生きていないとすれば、わたくしどもは、何も考えることができないし、何一つとして情や念をいだくことも叶わないでしょう。ですから、「ことば」は、考えかつ感じることがそこにおいて成り立つ、根源的な、知情意の「場所」(コーラ)にほかならないと言わなくてはなりません。「もの」は、「ことば」という根源場にはいりこみ、そこにおいて筋道づけられることをとおして、「事(こと)」となります。ゆえに、「事」、すなわち事柄や事態は、「ことば」のただなかで理的に整序された「もの」にほかならない、と考えなければなりません。ならば、「ことば」、すなわち「言(こと)」と、事柄・事態、すなわち「事」との不可分な結合を説く原初の「言事融即律」は、「言」の「事」化の主導因として「言霊(ことだま)」という霊威を想定しなくても、十分に成立可能であったと見ることができましょう。「もの」は、世界の宙空において流体として動き、かつ変化してゆきます。ならば、それをみずからのうちに導きいれる「ことば」も、時勢に応じて少しずつ変容してゆくはずです。「ことば」が変われば、当然、「事」も在来の姿のままにはとどまりえないにちがいありません。「事」も、つねに移り変わってゆくと解するのが、自然でしょう。ところが、不可解な生きものである人間は、「もの」も「ことば」も理路としては不動でないことを察知しているはずなのに、いったん定立され終えた「事」に固執し、それの時・処・位に応じた変化を、なぜかけっして認めようとはしません。「事」の不変不動性への盲信におちいった末に、人は、考えること、想うことを無意識裡に放棄して、いわゆる「伝統」なるものに全面的に服従してしまうのです。その場合にもっとも問題なのは、考えもせず、何も感じてさえいないにもかかわらず、自分は独自に思惟し、個性的情緒に浸っていると妄想することです。妄想は「無知の無知」を惹き起こし、人間性の真態に愚痴の蔽いを被せてしまいます。人の妄想の典型例の一つが、仏法という、さしあたっては「もの」に相当する思索の体系を、「宗教」という「事」のうちに固定化する近代的仏教観にほかなりません。

日本に仏教を伝えた百済の聖明王(撮影地:扶余)
日本に仏教を伝えた百済の聖明王(撮影地:扶余)

 日本では、明治期に近代的高等教育制度が構築されて以後、仏法は、一般に「仏教」と名ざされ、宗教の一角をなす教説の体系と目されてきました。帝国大学文科大学(現、東京大学文学部)において、欧米の大学をモデルにして諸学科が編制された際に、「仏教学」が宗教学科のなかに一科目として位置づけられたことが、事の発端であろうと推察されます。意外に思われるかたもあまたおられるでしょうが、六世紀初頭ころに朝鮮半島経由で仏法が伝来し、七世紀後半(天武朝)にそれが国政の主導的思想原理となって以来、この国において、仏法が宗教として規定されたことは、一度もありません。いわゆる「日本仏教」は、南都六宗の一部を除いてほとんどすべてが大乗(マハーヤーナ)の仏法ですから、大日如来や阿弥陀如来などの救済仏を想定し、それらの仏の権能のもとで衆生が救われることを求めます。その点に着目すると、大乗の仏法たる日本の仏法は、一見、「救済の宗教」のごとくに思えるでしょう。実際、南都六宗に天台と真言とを加えた平安期の「八宗」は、学問を旨とすると共に、加持祈祷をも主たる務めとしていましたから、現世利益(げんぜりやく)的な宗教としての一面を色濃くもっていたことは否めません。しかしながら、「八宗」の清僧(学僧)たちが真の目的としていたのは、衆生が、人智を超えた仏、菩薩によって救われることだけではなく、その救いをとおして、「覚(さと)り」にまでいたることでした。彼らは、救われつつ目覚めることをめざしていたのだ、と申せましょう。仏法の開祖がゴータマ・ブッダ(釈尊)であることは、いまさら強調するまでもありますまい。釈尊の教えは、「正見(しょうけん)」に基づく「覚り」を希求します。大乗は、釈尊の正統を自認する部派にくらべると、救いの教えとしての性格を強く示しはするものの、「覚り」が窮極の目標であることを、けっして否定してはいませんでした。大乗たる平安期の「八宗」も例外ではなかったこと、すはわち、その本質において「覚(かく)の教え」であったことを、わたくしどもは失念すべきではありません。

(撮影地:稲田禅房西念寺)
(撮影地:稲田禅房西念寺)

 鎌倉新仏法も、その点では、ほぼ同様です。たとえば、曹洞禅の確立者道元は、実は、自身の教説が「禅」と名ざされるのを嫌厭していました。彼の自己認識では、自宗は釈尊直伝の仏法以外の何ものでもなかったからです。釈尊の思想上の嫡系たらんとする道元が、「只管打坐(しかんだざ)」をとおしてめざしたものが、「覚(かく)」にほかならなかったことは、論ずる要もありません。親鸞は、俗に、道元と対遮的な立場に立つ「宗教者」ととらえられているようです。自力の修行を貫く道元に対して、他力本願の人親鸞は、凡夫にとって修行が不可能であることを説き、ひたぶるに弥陀如来による救いを求めた、というのが一般的な理解です。現代の真宗教義学に言う「絶対他力」を、もし親鸞が説示していたとするなら、こうした一般的理解は妥当なものとなるでしょう。ですが、親鸞が他力のみにすがり、自力を顧慮しなかったと解するのは、失当です。彼は、「絶対他力」など説いていません。

 親鸞は、自身の教説を「浄土真宗」と銘打っていました。しかし、これは、独立した宗派の立教開宗をくわだててのことではありません。親鸞の自称する「浄土真宗」とは、あくまでも真の浄土宗という意味です。彼は、この名称をもって、師法然の真なる継承者としての自己規定を行っているにすぎません。このこととともに重要なのは、親鸞がみずから「仏弟子」を名乗っていることです(『口伝鈔』)。仏法は師資相承によって成り立ちますので、当然のことではありますが、彼は、師法然をはじめ浄土七高僧たちをさかのぼった、その源に釈尊を見いだし、つまるところ自分は釈尊の弟子である、と語っているのです。その親鸞にとって、自身の教説が「救済の宗教」たることを本質とするなどという事態は、あるべからざることでした。彼の主著『教行信証』行巻末尾の「正信念仏偈」には、「成等覚証大涅槃」という一節があります。親鸞は、「覚(かく)」を成し、それによって心の静安としての涅槃へと到達することを志向していたのです。道元と親鸞とのあいだには、思想上の対遮的関係などありえようはずもありません。両者ともに「覚り」をめざしたのであり、しいて言えば、釈尊の「成道(じょうどう)」を道元がことに強調したのに対して、親鸞が「初転法輪(しょてんぽうりん)」を重視していたところに、2人のあいだの微妙なちがいがみとめられるだけのことです。道元も親鸞も、情に重きを置く「宗教家」たらんとしていたわけではなく、釈尊の教説を、理路に沿って哲学的に追思する思想家として自己を規定していたと見るべきではないか、と思われます。

 道元の示寂後、彼の門流は曹洞宗を名乗り、宗教的性格を強めてゆきます。しかし、打坐によって「覚(かく)」をめざすという姿勢は保たれており、完全に宗教化していったとまでは言えません。道元と親鸞の晩年期に、日蓮の活動が活発化します。日蓮の教え、法華宗は、現世利益に主眼を置く、救済の仏法として後世に引き継がれます。現代では、その支脈の一つが、現実政治(王法)に進出し、政権与党の一翼をになっています。王法から距離を置くことを原則とする仏法が政治権力を形成することは、釈尊の法統に立つ人々にとって、およそ理解のとどかない振舞いではあります。国民に銃口をむけるミャンマー国軍の将兵(彼らは、部派仏法の継承者です)にくらべれば、法華宗の継承者たちの行動はさほど異様ではないのかもしれませんが、はたして彼ら自身の仏法徒としての自覚がいかなるものなのか、すくなくとも、わたくしは疑問を禁じえません。ですが、そのような、今日では宗教教団と目される仏法宗派も、江戸末期以前の時点では、みずからを宗教を説くものとは考えていなかったようです。

お葉付きイチョウ(撮影地:稲田禅房西念寺)
お葉付きイチョウ(撮影地:稲田禅房西念寺)

 宗教と一線を画しつづけた仏法宗派の典型例は、浄土真宗でしょう。一般には、浄土真宗は、親鸞の主著『教行信証』に基づいて、ほかならぬ親鸞自身の意思のもとに立教開宗されたと考えられています。近代以降の宗門の解釈なのでしょうが、あきらかに誤りです。親鸞は、法然の思想的嫡系を自任しただけで、新たに一宗を開く意図など、露ほどももっていませんでした。後世に第3代法主と認定された親鸞の曾孫覚如には、一宗の独立を企図していた節があります。たとえば、親鸞の生涯を絵いりで描く『本願寺聖人親鸞伝絵(でんね)』を製作した際、覚如が親鸞を「宗祖」として位置づけようとしていたことは、おそらく否定できないでしょう。しかし、覚如のくわだては、結局のところ成功せず、彼が大谷廟の留守識(るすしき)に就いていたときも、その後も、「浄土真宗」なる仏法宗派の独立は、社会的には認められませんでした。総本山を自認する本願寺は、比叡山延暦寺(天台教団)の末寺という立場にとどまったのです。それを、仏法の一翼をになう教団として独立させたのは、「中興の祖」と称せられる第8世蓮如でした。

 蓮如は、卓越したオルガナーザーでした。天台教団の勢力圏外にあった越前吉崎を拠点として伝道活動をはじめた彼は、のちに京の山科や大坂に寺房を建立し、諸家の推計によれば、門徒数60万を数えるまでに、教線を拡張したと伝えられています。晩年には朝廷から「権大僧都」の称号を与えられていますので、彼は、独立した一宗の統率者としての地位を不動のものとしていたと申せましょう。しかしながら、蓮如は終生、自宗を宗教教団となそうという意図をもたなかったようです。主著とも言うべき『御文(おふみ)』(御文章)のなかで、彼は、いくたびも門徒たちを戒めています。自分たちを、一向宗、あるいは浄土真宗などと称してはならない、ただ、われらは念仏を旨としているとのみ述べておくように、と。蓮如の示寂後に編まれた『蓮如上人御一代記聞書』によれば、彼はつね日ごろ「仏法には無我」と語っていたそうです。蓮如は、親鸞と同じく、自身を「諸法無我」に集約される釈尊の教えの継承者ととらえていたということでしょう。宗教としての浄土真宗を衆庶に伝えようというような姿勢と、蓮如はあくまでも無縁でした。彼は、すぐれた組織者であり、かつは仏法継承者ではあったけれども、宗教者ではなかったと見るべきでしょう。

 このようにして伝承されてきた仏法は、江戸幕府が画定した檀家制度の枠内で政治的に世俗化され、思想的な意味での活力を削がれた挙げ句、明治期の学術システムのなかで、宗教の一つとして「事」化されてゆきます。「もの」と「言」との揺れに呼応して「事」が更新されていったならば、仏法の仏法たるゆえんは、どこかで回復されていたかもしれません。しかし、「事」は、いつのまにか動かすことのできない「真実」として固定され、いまでは、もはやだれひとりとして、その固定化の妥当性に対して疑いをもつ人はいなくなってしまいました。わたくしは、その固定化を全面的に否定しなければならない、仏法には一片の宗教性も内含(ないがん)されていない、と主張したいわけではありません。釈尊の教説は、智慧の教えである(ゆえに思想である)と同時に、慈悲の教えでもあります。衆生に楽を与え、その苦を取り除こうとする仏法が、一面において心の安らぎを求めるものであること、すなわち宗教性を湛えていることは、けっして否定すべきではない、と考えます。ですが、この国の高等教育の萌芽期からはじまった仏法の「事」化とその固定化は、実は、決定的とも言うべき事実誤認を、わかりやすく言えば、「もの」のとらえそこないを伴うものです。そのとらえそこないは、さらに一歩を誤れば、仏法の本質を踏み外し、果ては、釈尊以来の東亜の思想的伝統を破却し尽くすことにもつながりかねません。事態は、浄土真宗の根幹にも深く関わっています。現代の浄土真宗が、弥陀如来による悪凡夫たるわたくしどもの救済を説くこと自体は、けっしてまちがっていません。しかしながら、もし、浄土真宗の教義学が、弥陀如来と浄土とを、一個の人格的存在や実体的場所と解するならば、そのとき、この宗門は、もはや仏法としての本質を完全に見失い、仏法の一翼たるにあたいしなくなってしまいます。本論考の主眼は、この点をあきらかにし、浄土が本来どのような「事」であるべきかを問うことにあります。論述の過程で、宗門において無謬な偉人として敬仰される先学を批判することもあるでしょう。しかし、それをもって本論考をただちに「異安心(いあんじん)」として価値的に無化するとすれば、それは宗門を無思慮の闇に閉じこめることにもつながりかねません。読者のみなさまには、是非ともこの点へのご配慮を乞いたいと思います。

 

 

花びらは散る、花は散らない。

    

 近代真宗教義学の主導者の一人、金子大栄(かねこだいえい)のことばです。発話当時から多くの人々を魅了した言説です。いまもなお、多くの思想研究者が、これを、東洋思想の真髄をきわだたせるものとして称揚し、種々の解釈を施しています。日本では、古来、「花」とのみ言えば、それは桜花をさすことになっています。金子は、桜花について言及していると考えてよいでしょう。桜花の満開期は、ほんの1週間ほどです。開花後、二旬にすらおよばずに、桜花は散り果ててゆきます。現代俳人が、

 

ふるさとの訛りぽろりと花むしろ(伊藤惇)

    

 と詠じているのを見ると、桜花は散りしいてなお美観を残し、普段は忘れているお国ことばの感嘆詞を惹き出すのだと思われます。残像の美とでも申せましょうか。咲き乱れ、散り尽きて花むしろとなるのは花びらにちがいありません。花びらが散りゆくさまは、さながら妖麗な美女の嫋々としてはかなげな清らかさが束の間の盛期を失う姿を暗示するようで、その衰亡を詠嘆する情理が日本人の特性をなすことは、おそらく否めないでしょう。完整された女性の美しさは、若やぎを失ってもなお、彼女の肢体に残香をとどめ、異性の胸奥に仄かな情炎をかがよわせることでしょう。美のあからさまな具体は尽きても、その本然はけっして失われないのかもしれません。美の具体としての花びらは散ってしまう。しかし、美そのものとしての花は散らない。金子が言いたかったのは、そういうことなのでしょう。

パルテノン神殿(撮影地:アテネ)
パルテノン神殿(撮影地:アテネ)

 金子の、きわめて情緒的な当面の言辞の背景には、実は、西洋哲学に基づく、確たる思考が定立されています。花の属性はすべて失われるのだろうけれども、花そのもの(花自体)は存在する。金子はそう考えているのです。古代ギリシアを発祥とする西洋哲学の論脈に忠実に沿った思考であり、わたくしども現代人は、それを何の違和感も覚えることなしに、素直に受け容れることでしょう。アリストテレスの『範疇論』以来、西洋哲学の認識論において、述定の普遍的形式と目されてきたのは、「S ist P.」(SはPである)という命題です。この命題は、かりに属性(述語)としてのPがすべて取り払われたとしても、実体(主語)たるSは、「物そのもの」(物自体)としてとどまる、という考えかたを明示しています。のちに、カントは、『純粋理性批判』において、理論理性(純粋理性)による「物自体」の認識は不可能である、と説きました。アリストテレスによれば、たとえば、1枚の栗の葉から、青緑という色合いや、20センチの長さ、2グラムの重さなどのすべての属性を取り除いた跡にも、栗の葉そのものは残存することになります。ですが、その残存する「栗の葉自体」は、人間の感覚の範囲を超えていて、不可視です。そのような超感覚的存在を、外的感覚による触発を契機として機能する人間の悟性(ひいては理性)は、とらえるすべをもたない、とカントは主張するのです。アリストテレスは、西洋中世哲学(スコラ哲学)において、絶対的な権威としてあがめられた哲学者です。中世では、「哲学者」と言えば、アリストテレス一人を指していたのです(もし、現代の日本の哲学研究者たちが、西洋哲学史を文献学的に学習し、そのことを知っていれば、自身を安易に「哲学者」と称することを控えるはずです)。カントも、さすがにアリストテレスの権威を全面的に否認するわけにはゆかなかったのでしょう。彼がもしさらに思索を一歩進めていたなら、「物自体」はその存在そのものをも否定されていたはずです。しかし、カントの批判は徹底されず、彼以後の西洋哲学の論脈のなかに、「物自体」の存在は、暗黙の了解事項としてとどめおかれてしまいました。つまるところ、カントの峻烈な批判をもくぐり抜けて、「物自体」の在ることについての、ほとんど宗教的信仰とも言うべき信憑が、西洋哲学を貫きつづけたということです。金子は、可視的な属性としての花びらは散っても、不可視の実体たる花自体は散らずにどこまでも残りつづける、と言っているのです。それは、アリストテレス以来の西洋哲学の論理の伝統に則する言説と見るならば、けっしてまちがってはいない、否、西洋的思考を美しい桜花になぞらえて東洋的に語った「名言」だ、とも申せましょう。

 しかしながら、「花びらは散る、花は散らない」という言説は、真宗教義学の代表的担い手のことばとして、ひいては仏法の思想的伝統に立つ学問僧の発言として妥当なものでしょうか。仏法の開祖ゴータマ・ブッダは、「諸法無我」を説きます。いっさいの事物は、刹那に生・滅し、止住せざるがゆえに、それそのものとしての自性(じしょう)(本質)をもたない、それらは、「縁」と名ざされる関係性の束として生「起」するかのごとくに見えているにすぎないというのが、釈尊の教説の根幹をなす基本思想です。もとより、釈尊は、情性に根ざして、そのように説いているのではありません。刹那に生じ、刹那に滅するという事物の在りようを、「はかなし」とか「あはれなり」と感じる美的情緒とは無縁に、理路に沿って整然と、無常なる事物の固定不能性と、それゆえの非常住性とを説き示しているのです。釈尊に言わせれば、物が在ることを確証するすべはなく、ましてや、具体物の基底に「物自体」を措定することなど、述妄なる錯視以外の何ごとでもありません。散りゆく具体物としての花(花びら)の背後に観念としての花自体なるものを仮想するとすれば、そのような発想を、釈尊は無我説からの逸脱として峻拒するはずです。

(撮影地:茨城県笠間市)
(撮影地:茨城県笠間市)

 バラモン教やヒンドゥー教などのインドの伝統思想は、アートマン(個我)を措定し、それを基点として思索します。インド・ヨーロッパ語は、「主語-述語」関係を基軸として成り立っている言語です。したがって、西洋人やインド人が主語(個我)を消す思想と無縁であるのは、ごく自然なことと申せましょう。釈尊のアナートマン(無我)の思想は、インド人の思惟の伝統からすれば、異様なものだったと見るべきなのかもしれません。異様であったがゆえに、釈尊の教え、仏法は、インドには定着しえなかったのではないか、と推察することも、あながち不可能とは言えますまい。もし、金子が「花びらは散る、花は散らない」ということばを、アナートマン(無我)の思想との訣別を企図して語ったのだとすれば、それは仏僧の立場からの逸脱でこそあれ、すくなくとも、西洋やインドの哲学的、思想的伝統を固守するものとしては、けっしてまちがってはいないと言えます。しかし、金子は、故意に仏説から逸脱したのではありません。彼は、あくまでも親鸞を祖とする真宗の教義学者として、当面の言説を発しています。誠に不可解なことだと言うしかないのですが、真宗を代表する教義学者であり、没後なお宗門の内外で絶大な影響力をもっている金子大栄という仏法者は、花びらが散ればもはや花は存在しえないというのが仏説にほかならないことを知らなかったのです。金子に悪意があったとは思いません。「誹謗正法」の意図もなかったでしょう。しかし、悪意なく、仏説を排拒し、棄却するという意識すらなく、一宗を主導する立場にある学僧が釈尊の思想を踏みにじってしまうところに、明治以来の「日本仏教」の度しがたいとしか形容できない論理的欠陥があることは、「正見」をもって事物を見る人々には否定しえないところです。金子の「花びらは散る、花は散らない」という言説を東洋思想の真髄をうがつ「名言」と受けとめるような思想的土壌が築きあげられてしまったことに、浄土真宗、ひいては「日本仏教」の、根深い問題性がある、とわたくしは想います。その問題性の根源を探れば、金子の師、清沢満之(きよざわまんし)の姿が垣間見えてまいります。

 清沢満之。明治中期に真宗改革運動の担い手として活躍し、以後の真宗の教義学の在りようを決定づけたこの思想家は、今日、宗祖親鸞や中興の祖蓮如にも比肩されうる、浄土門の導き手として、多数の研究者や僧侶たち(ことに大谷派の学僧たち)から敬仰の念を集めています。彼が登場する以前の時代、浄土真宗は、江戸期以来の固陋な檀家制度に安住する、血脈のみが頼りの、学問もせず説法すらまともにできない無知で無教養な僧侶たちの、いわば互助団体のごときものと化していました。『歎異抄』の精緻な研究にいそしむ学僧は、少数ながら江戸期にもいたものの、親鸞の主著『教行信証』はほとんど顧みられず、その行巻の掉尾を飾る「正信念仏偈」の内容を何も理解しない僧侶が多数を占めるという惨状。それが、清沢以前の明治期の浄土真宗の偽らざる有りさまでした。この惨状を、大谷派(東本願寺)の思想上の近代化によって救った清沢の功績は、高く評価されるべきでありましょう。何せ、宗門外では親鸞非実在説すらまことしやかにとなえられ、浄土真宗の僧侶たちの多くが、「われらは蓮如上人の教えを継いでいる」と語って憚らなかった時代です。もし清沢が現われなかったなら、浄土真宗は、時流から取り残され、近代的学問研究の対象とはなりえない骨董的遺物として忘れ去られ、ほどなく滅び去っていたことでしょう。

 浄土真宗は、他力を核とする仏法です。ですが、すでに江戸中期あたりから、「他力本願」という核概念は、無責任きわまりない「おまかせ」の態度を示すものとして、一般の人々に揶揄されていました。清沢は、そうした揶揄が妥当なものでないこと、すなわち、浄土真宗が他力による救いを求めることを本義としつつも、その根底に自力を置くものにほかならないことを、身をもって示したのです。ローマンストアの奴隷哲学者エピクテトスに傾倒した彼は、理性をもって情の奔逸を抑止し、理路を追って教義を諦(あきら)める(明らめる)べきことを説き、峻厳なる克己の生活をつづけました。彼にとって他力とは、自力の努力を尽くした果ての他力であり、ただの「おまかせ」などではありえなかったということです。清沢が宗門の最高学府として創設された真宗大学の学長の座に就き、学生(学僧)たちを指導したことによって、真宗は近代的学問研究の対象として再構築されたと断定しても、けっして失当ではないとわたくしは考えます。清沢に言及せずして近代の新しい浄土真宗は語れないとすら申せましょう。

ケルン大聖堂のステンドグラス
ケルン大聖堂のステンドグラス

 しかしながら、不幸なことに、若年期から宗門の輿望を担っていた清沢は、創立まもない東京大学(のちの帝国大学)に進学し、そこで、「宗教学」の一分枝とされていた「仏教学」を専攻しました。つまり、彼は、仏法を「宗教」と解する西洋的論脈のなかで自己形成期を送ったのです。そのことが、彼のめざす真宗の近代化に影を落としたようです。西洋流に組織された、当時の「宗教学」は、キリスト教を宗教の典型と見なすものでした。そのため、清沢は、キリスト教をモデルとして、真宗の近代化を企てる方向へと歩んでゆきました。清沢は、弥陀如来をキリスト教の神に等しき存在ととらえたようです。彼は言います。弥陀如来は超越的無限者であり、われらは相対的有限者として弥陀にむき合う、と。報身仏としての弥陀如来が、人智を超える存在として衆生を摂取するという考えかたは、たしかに親鸞の明確に語るところです。わたくしども悪凡夫の有限性にも親鸞は言及していますから、清沢の言説が的を逸しているとは申せません。ですが、如来を法性法身としてとらえる際に、親鸞は、それは形も量も色も超えた、いわば絶対の無にほかならないとしています。その如来を「超越的

  

無限者」、すなわち「絶対有(う)」と解した刹那、清沢は、親鸞思想から逸脱してしまいました。彼は、「在りて有るもの」と規定される、キリスト教の超越的絶対有(う)たる全智全能最善の唯一神(ヤーウェ)を範型として、弥陀如来の有(う)的態様を想い描いたのでしょう。要は、清沢が、浄土真宗を、キリスト教によって代表される西洋型の有神論的「宗教」と解したということです。親鸞思想を相対化したうえでの解釈ならば、清沢自身の独自の見解を示すものとして是認されてもよいのかもしれません。しかし、親鸞の教えを精確に追思することを旨とする立場から見れば、清沢は、実相の誤認に陥っていることになります。

 清沢の解釈にしたがうとすれば、弥陀如来は、愛に満ちた救い主ということになり、如来が「五劫思惟(ごこうしゆい)」の願によって建立したとされる西方極楽浄土は、神の国(天国)と同様の、実体的理想郷と化してしまいます。そうすると、浄土真宗は、有(う)なる衆生が有(う)なる如来による来世での救済を祈願する「宗教」ということになり、そこでは、仏法の根源たる「無我」の思想と、「無我」を「覚」ることをめざす志向性とが無みされます。かくして、浄土真宗は、キリスト教とほぼ同型の「救済の宗教」へと変貌させられ、その結果、「覚り」へとむかう道行きが顧みられなくなってしまいました。清沢がめざした「近代化」は、浄土真宗を、仏法としての本然の在りようから引き剥がしたと言っても、おそらくは過言ではないと思われます。そのような文脈のなかで、夭折の思想家、清沢満之が己れに課した酷烈なまでの克己(自力の修行)の姿を凝視すると、そこには、個我の定立をめがける志向性が画然として立ちあがってくるようです。清沢にあっては、絶対有(う)たる弥陀如来と、清沢自身の相対的個我とが対(む)き合っています。そのような対き合いの構図は、キリスト教という有神論の「宗教」のなかでは、信徒たちが挙って承引しうるところとなるにちがいありません。しかし、それは、仏法においてはけっして認められえない構図です。清沢は、仏法の伝統的論脈から逸脱した地点で、浄土真宗の近代化を図ったということです。その清沢の試みが功を奏し、かつは、暁烏敏(あけがらすはや)や曽我量深(そがりょうじん)、金子大栄といった門人たちに引き継がれ、やがて

                               、、、

彼らが大谷派において枢要な地位を固めたとき(さらには、近代的宗教化に乗り遅れまいとする焦慮が本願寺派をもつき動かしたとき)、浄土真宗は、仏法としての本然の姿を、みずから完全に捨棄してしまったと言っても、けっして過言ではないでしょう。

 ただし、「文明開化」と銘打たれた社会改造をとおして、政治的、経済的にはもとより、文化や思想の面でも欧米型の国民国家を創りあげなければならなかった(そうする以外に、国際社会のなかでの存在を保てなかった)明治以後の日本という国にあって、浄土真宗の宗教化は避けられなかったという見かたも成り立ちます。言いかえれば、浄土真宗が、仏法の支脈をなしつつも、近代社会のうちで生き残るためには、その教義の主脈をキリスト教化する以外に有効な手立てはなかったということなのかもしれません。しかしながら、清沢とその門流が絶対的なまでに権威化され、その結果、彼らが創作した新たな教義としての「事」が無反省的に固定化されるという事態は、「もの」たるがゆえの親鸞思想の流動性を不当に抑圧することにつながります。すぐれた思想は、人間的思念(理と情)の根源場としての「ことば」のただなかで、つねに新たな動性を示しつづけるはずです。その動性が伝統に基づきつつ革新されることによって、思想は、永遠(とわ)に伝えられゆく「古典」となりうるのです。親鸞思想も例外ではありえません。そのことにいちはやく気づいたのが、清沢の私塾、浩々洞で学んだ経験をもちながらも、あえて清沢から距離を置き、独自に思索しつづけた大谷派の念仏求道者、蜂屋賢喜代(はちやよしきよ)でした。

 

 

 蜂屋賢喜代は、大谷派の末寺の一住職でした。晩年に大谷派の宗務顧問となったものの、同門の曽我量深や金子大栄のように大谷大学教授の地位に就いたわけでもなく、また、暁烏敏のごとくに説法師として全国津々浦々を経巡ったわけでもありません。蜂屋が教義学者への道を歩まなかったのは、幼年期に自坊を失い家庭生活が逼迫していたことが主な原因ですが、自釈自説を世に問うことよりも、むしろ「御開山上人の御跡」を慕い、親鸞の生と思想を追思することに全霊を賭そうとしたからでもあります。蜂屋も、暁烏と同様に、門徒への講話や法話を重んじていました。けれども、性的衝動を抑えきれずに「不邪淫」の戒を破りつづけたばかりか、果ては自坊に妻妾を同居させるにおよんだ末に、性欲の煩悩ゆえに救われるというのが親鸞の教えだと説くにいたった暁烏を、蜂屋はけっして認めようとしませんでした。道徳や倫理を必要以上に重視したからではありません。蜂屋には、「愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し」(『教行信証』信巻)という親鸞の告白は、特定の女性への情愛の抑えがたさを語るものでこそあれ、性的放逸を許容するものなどではないという認識があったからです。人は、性の開放性を一方で淫靡ととらえつつも、他方ではそれを肯定的に主張する言説を喜悦をもって迎え容れる傾向にあります。暁烏は、性を逆説的に肯定することによって聴衆の人気を博しました。それに対して、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」の大乗の七仏通戒偈からけっしてはみ出すことのない蜂屋の講話や説法は、異態的衝迫性に欠けるがゆえに衆目を集めるにはいたらず、その没後には、彼は、宗門の内部においてすら、いわば「忘れられた存在」となってしまいました。もっとも、彼の主著『正信偈講話』や『四十八願講話』などは、いまだに一部の門徒や説法者たちのあいだで読み継がれており、蜂屋賢喜代とは「知る人ぞ知る」重要な人物でありつづけています。

 蜂屋は、体系的な思想家ではありません。曽我のように形而上学的思弁を語る学者でもありません。史料を読み解いたり枚訂したりすることに重きを置く文献学にも、彼は大きな関心を寄せていません。ですが、彼の著作に遺されたいくつかの言説は、今日もなお、真宗の本然の姿に肉薄するものとして、重要な意義をもっています。たとえば、初期の随想録『仏天を仰いで』で彼が説く、自力に自力を重ねた末に自力に破れた人間にこそ他力の世界が開かれるとの主張は、師清沢の「隠された真意」を理路をもってあらわにし、親鸞思想の核心をきわだたせるものとして、きわめて貴重だと申せましょう。わたくしのような哲学研究者は、一般に、自力の努力をせずして他力を説く者は放逸無慚の徒であるとの主張は、田辺元(たなべはじめ)の『懺悔道としての哲学』に見られるものと解します。が、実は田辺よりも四半世紀近くも前に、それは蜂屋によって強調されていたのです。また、『歎異鈔講話』において、蜂屋は、『歎異抄』が親鸞に帰する悪人正機説は、万人が「いま、ここ」に生きて在ることそのものを悪と解するものにほかならない、と指摘しています。この解釈は、いわば「存在論的絶対悪」をまなざす、他に類例を見ないほどの斬新の極みに達していると言ってよいでしょう。

伊藤先生のご著書(稲田禅房西念寺書籍売り場にて)
伊藤先生のご著書(稲田禅房西念寺書籍売り場にて)

 以下に述べるのは、蜂屋自身の著述では語られていない「事」です。伝聞的間接資料に基づく語りですので、学術的価値に乏しいかもしれません。けれども、弥陀如来とははたして何ものかという、真宗にとってもっとも大切な問いをめぐる蜂屋のきわめて重要な言説と考えられますので、あえてここでとりあげてみることにいたします。さて、蜂屋には、森本省念(もりもとしょうねん)という、宗派を異にする「法友」がいました。森本は、京都帝国大学哲学科で西田幾多郎に学んだ禅者で、禅道場長岡道場を主宰していました。森本は、宗派意識の希薄な仏法者であったらしく、曹洞と臨済とを峻別する意義すら認めていなかったようです。道元に近しい立場に立ち、釈尊直伝の仏法の継承者たらんと意図していたのかもしれません。彼が、自己を知るとは万象に照らされることだという禅の本義に忠実だったとすれば、彼にとって「自然法爾(じねんほうに)」を説く真宗に接近することは、けっして不可解な振舞いではなかったということなのでしょう。2人の出逢いの経緯を跡づけることはできませんが、森本と蜂屋との関係は、一休禅師と蓮如とのそれのごとく肝胆相照らすものだったと推察されます。

 森本についてのいくつかの評伝や、弟子たちが語る逸話によれば、戦後まもなく蜂屋の寺、大阪天王寺の光照寺(米軍の空襲で焼失し、当時は仮堂とバラックの庫裏が建てられていました)での森本との対話のなかで、蜂屋は、こう語ったそうです。「阿弥陀さんなんか、どこにもいやはらへんで」と。おそらく、酒を飲みながらの発言でしょう。蜂屋が唐突にそれを語ったとは想像できません。森本が、禅者としての立場から、釈尊直伝の仏法を奉ずるという自負のもとに、「諸法無我を説く仏法において、弥陀如来を超越的絶対有(う)として措定することはおかしいのではないか」と問うたのだ、と思われます。たしかに、いっさいが空、無我ならば、実体的主体我などありえないと言わざるをえないのです。蜂屋は、森本の問いに鋭く(たぶん微笑しながら)反応し、弥陀如来は物としては非在であり、あえて「ことば」をもって表現するならば、それは、「絶対の無」だと言ったのだろうと推されます。真宗の教義、なかんずく清沢とその門流の確定した近代教義学に照らし合わせると、蜂屋は、「異安心(いあんじん)」(異端)に陥っているようにも見えます。ですが、『歎異抄』第十八条には、「安養浄土の教主の御身量」は、あくまでも「方便報身のかたち」であり、法性法身としての如来は、五色を離れ、形も大きさもない、と言われています。また、『自然法爾章』では、親鸞みずから「無上仏と申すは、かたちもなくまします」と語っています。これらの史料によれば、親鸞にとって弥陀如来とは、形象を超えた無量光、無量寿、つまりは絶対の無にほかならなかったと考えざるをえません。実体的存在としての弥陀如来など、いかなる時・処・位にも見いだしえない。蜂屋はそう言っているのです。わたくしどもは、それを、親鸞思想の核心をきわだたせる鋭利にして的確な言説と解さなければなりません。

 このような言説が、「事」を不動のものとして固定しつつ墨守する態度と無縁であることは、ことさらに強調するまでもないでしょう。救い主たるイエス・キリストになぞらえて、弥陀如来を絶対の有(う)(存在そのもの)ととらえる清沢とその門流の解釈を、蜂屋は拒んでいたということでありましょう。「蜂屋賢喜代」の名を知る数少ない真宗関係者は、彼に言及する際、「清沢満之先生の弟子」と規定します。まちがっているとは言いきれません。しかし、蜂屋賢喜代自身は、その著作において清沢を「先生」と呼ぶことはあっても、清沢の親鸞解釈を高く評価することは生涯一度もありませんでした。蜂屋は、清沢に心酔する僧侶たちが金科玉条のごとくに崇める清沢の言説にたった一度だけ触れて、それを「いかにも青年たちに喜ばれそうなことばですね」と評しています。蜂屋の真意をそこから汲み取ることは困難です。ただ、蜂屋は、この日本という国でもっとも古い都市の一つ大阪の生まれです。都会人の典型であり、理的に思惟することを旨としていた彼には、一個の人格を絶対化して尊崇する態度は不合理にしか見えなかったのではないか、と推察されます。個人崇拝が、考えること、すなわち「もの」の「事」化において、負的に作用することを、蜂屋は本能的に見抜いていたのではないでしょうか。

(撮影地:稲田禅房西念寺)
(撮影地:稲田禅房西念寺)

 思想は、その初元において「もの」として呈示されます。親鸞思想もそうです。「もの」は、動き、かつ流れます。それが解釈者の眼前で、「ことば」という根源場に引きこまれるとき、「事」が成り立ちます。清沢とその門流にとっての「事」は、弥陀如来を絶対有(う)としてとらえる方向性を示していました。が、蜂屋が依拠した「ことば」は、それとは逆に、弥陀如来を無として「事」ならしめたのです。蜂屋は、自身が見いだした「事」に忠実であろうとするかぎり、「弥陀はいない」と断ぜざるをえなかったのでありましょう。ただし、弥陀が実体的に存在しないということは、その「用(はたら)き」もないということを意味しているわけではありません。弥陀如来は、存在せずして用きます。しかも、「いま、ここ」、すなわち現生において。蜂屋は、後世への遺言にも等しい『四十八願講話』のなかで、「いま、ここ」において衆生を救いえない宗教は、「真の宗教」たるにあたいしないと述べています。彼は、浄土真宗を「宗教」ととらえる点においては、清沢と視点を等しくしているようです。が、蜂屋は、浄土真宗の宗教たるゆえんを、親鸞が、『大経』(無量寿経)第十八願願成就文に言う「即得往生、住不退転」の一節に自身の教説の核を置いていたことのうちに見いだしています。「いま、ここ」、すなわち現世のまさに現在時にあって、われらは往生を遂げるというのが、親鸞の浄土観における基本認識だった、と蜂屋は主張しているのです。蓮如の言う平生業成と響き合う主張と言えます。蜂屋は、しかし、この現生がそのままただちに浄土となるとまでは言っていない、とわたくしは思います。ならば、蜂屋の解する浄土とは、つまるところ何であったのでしょうか。

 弥陀如来が絶対の無であり、それゆえ非実体であるなら、如来の浄土もまた実体化されえないはずです。無が主宰するのが有(う)であるという事態は、論理の範疇を超えてしまいます。残念ながら、蜂屋は、そこまでは語り尽くそうとしません。親鸞の「御跡を尋ねる」ことに関して、他のいかなる解釈者にも増して、真摯にして鋭利だった彼も、浄土真宗を宗教と解する近代教学の影響から完全には脱しえなかったということなのでしょうか。もしそれが宗教だとすれば、親鸞の思想は、信心の位相に止往することになります。弥陀如来から与えられる心性たる信心の極北に、さらに智慧の鋭鋒を突きいれないかぎり、親鸞にとっての仏法の真義は、明確な形では見えてこないのかもしれません。

ニーチェはスイス最古のバーゼル大学で教授を務めた。旧館(塔の前にあるクリーム色の建物)はライン河畔にある。バーゼルは、スイス・ドイツ・フランス国境の街だ。
ニーチェはスイス最古のバーゼル大学で教授を務めた。旧館(塔の前にあるクリーム色の建物)はライン河畔にある。バーゼルは、スイス・ドイツ・フランス国境の街だ。

 偶然ととらえるべきなのでしょうか。蜂屋賢喜代の義弟に、山口益(やまぐちすすむ)という仏教文献学の泰斗がいます。仏教文献学は19世紀ドイツ文献学の一分枝として発展したものですが、山口益はフランスに留学し、フランス文献学を学びました。よく知られているように、ドイツ文献学は、文献考証から逸れる研究をいっさい認めません。文献学者として颯爽と学界にデビューした若きニーチェが、文献学の枠を超えた独創的な思索書『悲劇の誕生』を公表したとき、透徹した文献学者ヴィラモヴィッツから文献的根拠の欠如を徹底批判され、学界での学者生命を断たれたというエピソードは、まさにドイツ文献学の峻烈なまでの厳格さを浮き彫りにしています。そのドイツ文献学を移入した日本の大学では、それが伝統的な訓詁学と結びつき、学問に想像は不要である、史料を正しく訓むことこそが人文学の本義であるという考えかたが主流を占めるようになりました。そのため、本来ならば思索の独創性を生命線とするはずの哲学さえもが、日本ではいちじるしく文献学化されてゆきます。余計なことかもしれませんが、先の大戦後にGHQの圧力のもとで西田幾多郎の学統「京都学派」が瓦解させられ、田中美知太郎の主導する哲学的文献学が学界を席巻するにいたったとき、この国の「日本哲学」は終焉を迎えたと言えます。ドイツ文献学が、研究者の想像をいっさい許さない姿勢をとっていたのに対して、フランス文献学は、文献考証を前提とする独創的推理を推奨する傾向にありました。聖書を徹底的に精確に読み抜きつつ、「人間イエス」の姿を想い描くルナンの『イエス伝』は、そうしたフランス文献学の粋を示すものと申せましょう。フランス文献学の手法に基づいて仏法、なかんずく大乗仏典を研究した山口益は、仏典の内在的研究に主眼を置きながらも、仏典のテキストクリティークにのみ終始することを潔しとはしなかったようです。『中辺分別論』を、残された断片から再構成することに成功した山口の文献学上の功績には深甚なものがあります。が、同時に、彼は、『中辺分別論』の註釈者でもあった世親(ヴァスバンドゥ)の『浄土論』について、単なる文献考証の枠を超えた独創的な解釈を施しています。その解釈をもっともわかりやすく披瀝するのが、彼の晩年の書『大乗としての浄土』です。

 浄土真宗に関心を寄せる人であれば、だれもがよく知っていることでありましょうが、親鸞は「正信念仏偈」において、浄土七高僧の名をあげて、彼らを讃嘆しています。師法然が樹立した浄土宗が師資相承を踏まえた正統なる仏法であることを強調する意図に基づいてのことです。親鸞は、そこで、世親を浄土門の第二祖として位置づけています。したがって、親鸞思想、わけても彼の浄土論を解きあかすためには、世親の思想への考究を欠かすことはできません。山口は、おそらくそのことを熟知するがゆえに、世親とその前後の思想家や論書の研究に、生涯を賭したのでしょう。『大乗としての浄土』において、山口は、世親の浄土論について、斬新にして、同時代には過激にも見えたであろう解釈を展開しています。すなわち、世親の言う「浄土」とは、一般に浄土門の人々が想像するような、キリスト教のパラダイス(天国)にも等しい理想空間などではなく、現世に作用する「用(はたら)き」にほかならなかった、と山口は説くのです。要は、世親が、「浄土」を「妙有(みょうう)」(実体化される、すばらしい場所)ととらえているのではなく、妙用(みょうゆう)」(すばらしい用(はたら)き)と解している、ということです。そして、山口は断定します。「浄土」としての「妙用」は、英語で表現するなら、purificationとなる、と。つまり、世親の「浄土」は、すべてを清める「浄化作用」にほかならない、というのが山口の解釈です。口惜しいことながら、サンスクリットの知識をもたず、漢文にすら疎いわたくしには、山口の解釈の正当性を感覚的には把握できても、それを文献的に跡づけるすべがありません。しかしながら、世親が仏法史上においてどのような立場をとる思想家だったのか、そして世親を讃嘆する親鸞が浄土についていかに語っているのか、その概略を追えば、山口の真意と、浄土門にとっての浄土の真態とが、おぼろげながらではあれ、見えてくるのではないかと思われます。「親鸞」という僧名が、世親の「親」と、世親の忠実無比な解釈者曇鸞の「鸞」とに由来することはあきらかです。世親の真に意図するところを、大枠としてつかめば、親鸞の浄土論の概要が、おのずからに浮かびあがってくるのではないでしょうか。

 

 

 世親の『浄土論』は、菩提留之(ぼだいるし)の漢訳では、『無量寿経優婆提舎願生偈(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)』という書名になっています。その冒頭部分において、世親はこう言っています。

 

世尊、われ一心に尽十万無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。

    

 これを読むと、世親は、浄土を、「安楽国」、すなわち、現世を超えた実体的世界たる理想郷ととらえたうえで、みずからもまた、そこへと往き生まれることを切願していたように見えます。人間とは、迷い多き生きものであり、迷いをもつがゆえの弱さを自覚するとき、「無から生じて無に還るにすぎない」という「有(う)」の実相を凝視することに耐えられなくなり、ともすれば、永遠(とわ)に常住なる異世界を仮想し、そこに自身の存在をとどめたいと念ずることもすくなくありません。世親も、迷い、かつ覚りえない存在者として自身をとらえたとき、仮想世界への存在の移行を希求したということなのでしょうか。人間の情をいたしかたなきものととらえるなら、世親が実体としての「安楽国」に死後に往き生まれたいと願うのも、けっして不自然なことではないのかもしれません。しかしながら、史的論脈に即して世親の思想を追思してみると、その祈願が世親の真意を言い表わしているとは、とうてい考えられません。と申しますのも、世親は、実兄、無着(アサンガ)とともに、唯識論を展開した仏法思想家だからです。唯識論とは何か。それを詳細に論ずる用意は、わたくしにはありません。唯識論は、瑜伽(ゆが)行と密接に結びついているようですが、それについても、わたくしには、絶対者との瞑想的合一をめざす修行法ということ以上の知識はありません。「絶対者」なる物を想定してしまうと、瑜伽行は仏法の枠を踏み破るのではないか、とも思います。唯識論は仏法の一翼を担います。それがなぜ瑜伽行に関わるのか。そのことも、わたくしにはわかりません。ただし、唯識論が、「物自体」を個物の背後に見いだす思考を排拒する方向を示すことだけは、わたくしにも理解のとどくところです。

 唯識論は、意識の基体として主体我なるものを定立させる一般的な思考を拒斥することを旨としています。主体我を前提とせずに、意識現象の発出のみを認めるのが、唯識論の基本的立場です。言いかえれば、意識現象が、いわば流動的な形で現実世界に漂うことは確かだとしつつも、それらの現象を統括する主体我の存在に疑問符を打ち、かつは主体我を認識しうる可能性が皆無であることを主張するのが、唯識論の骨子と申せましょう。言うまでもありませんが、唯識論は、大乗(マハーヤーナ)の教説です。大乗は、龍樹(ナーガールジュナ)、なかんずく彼の『中論』によって、理論的に確立されました。『中論』は、「有(う)」を措定するすべての命題を、成立不能として空ずる論書です。典型的なのは、「行ったものは行かず、行くものも行かず、行くであろうものも行かない」という論説でしょう。「行ったもの」はもはやない過去の有(う)ですから、いま、ここ、において行くはずもありません。「行くであろうもの」は、いまだない未来の有(う)です。ゆえに、いま、ここで行くことはありえません。現に行きつつある有(う)も、刹那に移り動きますので把握不能です。有(う)は、いかなる物であれ、時空内に定在しえず、したがって、有(う)を意識化するのは錯視でしかない、と龍樹は説いているのです。龍樹は、新規な論を説いているわけではなく、あくまでも仏説「諸法無我」を大乗の論説として徹底させているだけのことです。唯識論が、龍樹に依拠するものであることは、論をまちません。したがって、世親の唯識論は、釈尊以来の仏法の伝統思想たる無我説の、認識論的系統化を主眼とする論説と解せられます。このような唯識論に立脚する世親が、意識現象の流れの背後に、浄土という実体的世界を措定するという事態は、論理的にはありえないことです。世親は、一凡夫としての情において、実体的場所(理想郷)たる浄土への往生を乞い願ったのかもしれません。しかし、論理的に思考する唯識思想家としての彼は、けっして浄土を実体化して、一つの世界ととらえようなどとはしなかったはずです。山口益が指摘するように、世親にとっての浄土とは、有(う)たる場所ではなく、純粋なる作用性、すなわち、基体なき浄化作用そのものであった、と見るべきでしょう。

(撮影地:稲田禅房西念寺)
(撮影地:稲田禅房西念寺)

 わたくしどもは、つねに貧瞋痴の三毒の煩悩におおわれています。世親によれば、浄土は、そのような煩悩を取り除き、汚濁を清めてくれる浄化の妙用(みょうゆう)です。妙用の用きとは、「気枯れ(汚れ)」を取り去る、いわゆる「きよめ」と同義ではありません。それは、わたくしどもを「真我」へと導く純粋能作にほかなりません。近代以後の「仏教者」の多くは、「真我」となることができれば、その時点でわたくしどもの救済が実現されると考える傾向があります。浄土教の文脈では、弥陀如来に導かれて「真我」として浄土に憩うとき、人は「正覚」を得たということになるのでしょう。仏法が宗教であるとするならば、そうした見かたがまちがっているとは言いきれません。しかし、「真我」を得ることで目標が達成されるという考えかたは、仏法についての思想的理解としては十分なものとは申せません。たしかに、「真我」は、「在るがまま」という意味における、わたくしどもの「真(まこと)」の姿ではあるでしょう。けれども、たとえ「真(まこと)」ではあれ、そこにはまだ「我」(個我)が残っています。釈尊は、その個我を消し去られるべきものととらえます。釈尊によれば、個我は関係性の束にすぎず、その束をすべて取り払った位相に成る空、無こそが、わたくしどもが求めるべき最終の目標なのです。空、無を「正見(しょうけん)」をもって冷静にまなざすこと。それが仏法が到達すべき「目覚め」であり、まさに「覚り」であるというのが、釈尊の教えです。ゆえに、個我から三毒の煩悩をぬぐい去るだけで能事終われりとするのは誤りです。おそらく、世親は、そのことをはっきりと見究めていたことでしょう。であるならば、彼が浄土を浄化の妙用と解する際、その浄化とは、煩悩の清め、ひいては除去にとどまるものではなく、「個我」を無化する能作でもあったと考えられます。すなわち、世親は、仏法の思想的伝統の核をなす「諸法無我」の枠組みのなかで、浄土の論を、「優婆提舎(うばだいしゃ)」、言いかえれば衆生への「導き」(introduction)として説いたのです。世親が志向したのは、「八不の論」をもって、「有(う)」を定立させる全命題の廃棄をめざす龍樹と同じく、「正見」の貫徹でした。世親は、超越的絶対有(う)の権能による個我の絶対的救済を信ずる型の「宗教」とは、どこまでも無縁でありつづけた、と考えなければなりません。

 世親の浄土論は、曇鸞によって忠実に継承され、道綽とその直弟子善導へと伝えられてゆきます。ただし、世親と曇鸞が『大経』を重んじたのに対して、道綽と善導は『観経』を重視します。それによって、前2者と後2者とのあいだに思想上の微妙な差異が生じたことは否めません。中国浄土経の大成者と呼ばれる善導は、師道綽にならって、浄土の教えの根幹をなす念仏を、口称のそれととらえていました。口で「南無阿弥陀仏」(帰命無量寿如来、帰命尽十方無碍光如来)ととなえるだけなら、だれにでもできるわけですから、念仏は、それによってみなが救われる易行となります。このような、念仏の易行化を徹底した点において、善導は、万人救済への途を拓いたすぐれた宗教者だったと評価できるでしょう。しかし、実は、善導は、浄土教を完璧なまでに「宗教」化しようと意図していたとは言いきれません。彼は、『観経疏』を著わしました。『観経』の註釈書であり、主著と呼んでよいでしょう。その『観経疏』において、彼がとくに強調したのが、「定善十三観」です。それは、『観経』の記述にしたがって、浄土と、そこを定在の場とする弥陀如来や、観音、勢至などの諸菩薩の姿、形を脳裡に想い浮かべること、すなわち、観相、観想をめざす精神的いとなみにほかなりません。観相、観想は、理路に沿って整然と進められる思想的営為であり、感性上の表象や主情的幻想などではありません。言いかえれば、情に基づく信を、かならずしも前提にはしていないということです。善導は、みずから想い、考えることを旨として「定善十三観」を詳説したのであり、その点を重視するならば、彼は宗教性よりもむしろ思想性を示していると言わなければなりません。けれども、浄土三部経のなかで『大経』をもっとも重視した世親とはちがって、善導は、浄土を現生とは異なる別世界として場所的に実体化しているようにも見えます。観相、観想の対象はあくまでも有(う)であって無ではありえないのですから、この見かたの妥当性は否定しがたい、と思います。浄土とそこに住まう仏、菩薩たちを実体視すれば、浄土教は俄然「宗教」性を色濃く帯びてまいります。けれども、善導の観相、観想のいとなみは、あくまでも現生、すなわち、「いま、ここ」における営為です。その意味では、善導は、浄土を死後の理想郷ととらえること、および、仏、菩薩たちをそこへの導き手として擬人的に神格化することを、微妙に回避しているとも解せられます。善導が浄土教を確立したという見かたがもし正鵠を射ているとすれば、浄土教とは、思想と宗教との「あわい」に立つ教説であると言うべきなのかもしれません。

(撮影地:群馬県吾妻郡嬬恋村)
(撮影地:群馬県吾妻郡嬬恋村)

 親鸞の「正信偈」によれば、日本の浄土教の始祖は、源信ということになっています。善導の教説が直接源信に伝わったのか、あるいはその間に何人かの媒介者がいたのか、わたくしには詳細はつかめません。ともあれ、源信は、天台教団の僧としての立場を生涯崩すことなく、浄土の教えを説きつづけました。「日本仏教」史上では、これを「天台浄土教」と呼びます。源信の「天台浄土教」は、浄土論を、死後世界をめぐる論説へと明確に転化させています。「恵心僧都」という名で『源氏物語』にも登場するこの僧は、もともとは、仏法の論理学「因明(いんみょう)」を研究する学僧でした。時あたかも仏法の「末法史観」に言う像法事(ぞうぽうじ)を迎えており、源信は、末法到来を目前にして、「像末最終の大警告」を発しなければならないとの使命感に衝き動かされたようです。彼は、『往生要集』と題する全3巻の大部の書を物しました。書物を板木に刻んで公刊する技術はおそらくその時代にはまだなかったでしょうから、書写の形で伝えられたものと推測されます。読者は、天台の学僧たちや都の公卿、公家たちにかぎられていたでしょう。にもかかわらず、『往生要集』は、当時の思想界に衝撃的な影響をもたらしました。同書には、地獄の酷烈さが生々しく描写されていたからです。

 釈尊は、「諸法無我」を説くがゆえに、「魂」という霊的実体の存在を認めませんでした。したがって、釈尊の仏法は、魂が六道を輪廻するという思想とは無縁です。ところが、大乗の仏法は、輪廻説を説きます。インド在来の土俗信仰を黙殺するわけにはゆかなかったからでしょう。しかし、大乗といえども、釈尊の教説を軽視することは許されません。それゆえ、大乗は逆説的な形で輪廻説を披瀝することになります。すなわち、大乗は、いかにすれば人は輪廻を脱し、静安なる涅槃の境に達しうるかをみずからの課題としたのです。源信がめざしたのは、末法時という、「行」(修行)も「証」(さとり)も消佚する悪世を目前にしたいま、人々をして、苦に充ち満ちた生死の悪しき循環から脱せしめるための論を説示することでした。『往生要集』は、そのために書かれたのです。同書は、六道の酷烈、無惨なさまを強調します。ことに、地獄の描写は鮮烈です。源信は、読者の胸中に地獄のむごさを印象づけることによって、堕地獄を避け、極楽浄土を欣求することの重要性へと彼ら、彼女らを覚醒させようと企てたのでした。怖ろしい地獄、そして餓鬼、畜生を逃れて、浄土の安穏を得るにはいかにすればよいのか。それをあきらかにする方法論が、『往生要集』の骨子にほかなりません。

 同書で、源信は、あきらかに、浄土を死後の安養界として実体化し、場所と見なしています。そして、同書において、浄土の主宰者たる弥陀如来は、衆生の救済者として擬人的に神格化され、かつは絶対的権能がそこに帰せられます。この書そのものは一般の民衆に読まれることはなかったでしょうが、この書を手がかりにして描かれた地獄絵や弥陀来迎図は、人々に多大な影響を与えたようです。以後、平安貴族たちを中心に、弥陀による臨終来迎の信仰が広汎に拡大、滲透してゆきます。それに着目するならば、浄土教は源信によって宗教化された、という見かたもできるかもしれません。しかしながら、源信は、来迎をになう弥陀如来を、超越的絶対有(う)ととらえたわけではなく、まして創造主と見なしたわけでもありません。たしかに、彼にとっての弥陀如来は救い主ではあるのですが、それを万事万象を統御し支配する絶対有(う)と解する発想は、彼にはありませんでした。その意味で、源信の仏法は、すくなくとも、欧米や中東において特徴的な、一神教的超越神を崇める宗教とは一線を画するものであった、と申せましょう。が、源信が、「正見」に基づく「覚り」を最終目標とする釈尊以来の伝統的仏法から微妙に逸脱していることは否めない、とわたくしは思います。そして、その逸脱は、源信の影響を受けながら、天台浄土教を一個の独立した仏法、すなわち「浄土宗」へと転化させた法然の思想にも影を落としているように見うけられます。

                                    (令和6年6月29日稿)(後半に続く)

現在の開門時間は、

9:00~16:00です。

 

境内の「お葉付きイチョウ」が見頃を迎えています。

ぜひお立ち寄りくださいませ。

(2024/11/20)

2024年度の新米が入荷しました。今年の新米も昨年同様ローズドール賞(最優秀賞)を受賞した新品種「ゆうだい21」です。詳細は左端のタブ「庵田米の販売について」をご覧ください。    (2024.10.04)

 

筑波大学名誉教授(日本思想)伊藤益先生のご講義【第7回】     

「浄土論―仏法は宗教なのか?―」(前半)をUPしました。左端のタブ「internet市民大学」よりお入りください。      

         (2024.9.23)

 

【馬頭琴と朗読のコンサートのご案内】

11月に、馬頭琴と朗読のコンサートが当山本堂にて開かれます。

馬頭琴・喉歌は嵯峨治彦さん、朗読は見澤淑恵さんです。お2人とも様々な場面でご活躍なさっています。

この機会にどうぞ、馬頭琴と朗読の素晴らしいコラボレーションの世界をお愉しみくださいませ。詳細は以下のチラシをご覧ください(PCをお使いの方は、左メニューの「スマホ用の速報掲示版」より、大きいサイズでご覧いただけます)。

(2024.9.23)

⇒終了しました。

 ご来場いただいた皆さま、

 ありがとうございました。

(2024/11/20)

 

日程2024年11月17日(日)

   14時~15時

  (13時30分 開場・受付)

演目:芥川龍之介「蜘蛛の糸」  

   ほか

場所:稲田禅房西念寺 本堂

  (茨城県笠間市稲田469)

 

チケット料金:前売り2000円

       当日 2500円

 

◆チケットは以下のフォームよりお申し込みください。

 お檀家の方は西念寺へお問合せ・お申し込みください(檀家割引あり)。

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScEiSUwHIRGfjPk0WfRn6-sSnAad4lZPtssVJAslC3Cx4x8dQ/viewform

※終了しました。

「市民大学講座」7月14日(11:00~15:00)に開催します。ご講師は当HPのinternet市民大学に続けてご投稿くださっています伊藤益先生(筑波大学名誉教授)です。詳細は左端のタブ「公開開講座・Seminar のご案内」をご覧ください。満席の上に質疑応答で40分の延長となりました昨年と同様に、暑さに負けない熱い講座となるものと思われます。ご参加をお待ちしています。(2024.5.30)

★6月15日に受付開始します。

⇒60名のご受講者があり、盛況のうちに終了しました。次回を楽しみにお待ちください。

       (2024.7.15)

 

親鸞聖人御誕生850年および立教開宗800年を記念した前進座特別公演「花こぶし」の水戸公演が2月に行われます。

詳細は左端の「お知らせ」タブより「行事日程と工事予定」をご覧ください。

(2024.1.11)

⇒ご鑑賞、御礼申し上げます。

 

「除夜の鐘」をつきます。23:50~01:00頃。ご参拝ください。   (2023.12.31)

⇒ご参加・ご参拝ありがとうご

 ざいました。(2023.01.1)

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。