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仏教の開祖、すなわち最初に仏法を説いた人物が釈尊(ゴータマ・ブッダ)であることは、今日、洋の東西を問わず広く知られるところとなっています。しかし、その教えが元来どのようなものであったのかという点は、あまり理解されていないように見うけられます。仏(ほとけ)の教えなど理解したところでさしたる意味はあるまい、と考える現代人が増えたためかもしれませんが、それよりも問題なのは、言語の壁が理解をはばむという事態ではないかと思います。釈尊は、パーリ語のなかで日常生活を営みつつ思索していたようですが、一部のすぐれた文献研究者をのぞいて、この言語を解しうる人は、現代にはほとんどいないであろうと推察されます。数多くの現存仏典に使われるサンスクリッド語やチベット語がわかる人もまれでしょう。釈尊の教えに直接触れることのできる人があまりに少ないというこの事実は、仏教の衰退とけっして無関係ではないと思われます。直接触れることさえできれば、仏法ほど興味深いものはほかにほとんどないといっても過言ではないと申せましょう。言語の壁の前にたじろぐわたくしども現代人には、すぐれた研究者の手に成る入門書をたよりに、間接的に釈尊に触れるしか手立てがないようです。しかし、諸種の入門書は、釈尊の主要概念、たとえば「四諦八正道(したいはっしょうどう)」や「十二支縁起(じゅうにしえんぎ)」などをならべ、それらについて細目を解説するという方法をとることが多いように見うけられます。細目を網羅する形の解説を読んでいると、ともすれば、釈尊の教えの全体像をつかみきれなくなるという困った事態が生じてしまいます。各種の入門書は、もちろん全体像を描くことに意を用いているのですが、細目の分析が詳細にすぎるために、読者の理解はこまぎれになることが多いのです。端的にいって釈尊の教え、すなわち仏法とは何なのか、いくら丹念に既存の入門書を読みこんでみても、それがはっきりしないということです。
つまるところ、入門書を書く研究者たちは、文献にこだわりすぎている、そしてそのこだわりによる解釈の精緻化が読者の理解を阻んでいるということでしょう。もとより、文献的検証をないがしろにすることは許されません。とはいうものの、何も書き遺(のこ)さなかった釈尊を、ただ文献にのみ基づいて理解しようとする試みには、どこかに無理があるのではないでしょうか。釈尊は、相手の機に応じて相手にわかるように法を説こうと心がけた人だったようです。つまり、対機説法を旨としていたわけですが、いつも相手に合わせるというこの手法が、釈尊の教えの根幹をわかりにくくしているように思われます。しかし、釈尊は、実は、三十五歳での成道以後、四十五年の長きにわたって、ただ一つの事だけを説きつづけました。苦に満ちた世俗の現実をいかにすれば解脱(げだつ)しうるのか。釈尊生涯の主題は、まさにそこにあったと申せましょう。この主題に沿った釈尊の教説を跡づけるには、文献を探ると同時に、釈尊の論理とその道筋を追うことが肝要なのではないでしょうか。論理・論脈を跡づけることが、生涯をかけてただ一つの事を一貫して説きつづけた思想家としての釈尊像を鮮明な形で浮きあがらせることにつながる可能性は、けっして低くはないとわたしは思います。
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文献的伝承によれば、成道後の釈尊は、みずからのさとりの内実を人に語るべきか否か、躊躇(ちゅうちょ)したといわれています。語ってみたところでだれにもわからないので
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はないかと考えたらしいのです。ためらう釈尊の前に梵天(ぼんてん)が現われ、さとりの
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内実を衆生に伝え彼らをさとりの境地に近づけてくれと懇願したそうです。これを、伝承では「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」といいます。梵天の懇願を聞き入れた釈尊は、鹿野苑(ろくやおん)において最初の説法を行いました。この、いわゆる「初転法輪(しょてんぽうりん)」は、仏法の歴史において、重大な意識を担っています。もし初転法輪がなかったならば、仏説はだれにも伝わらず、それゆえ今日の仏教も成立しえなかったからです。親鸞とその門流にあっては、この初転法輪が重視されます。親鸞たちは、釈尊の説法にならって、法話と聞法(もんぽう)を根幹に置く独特の教義をうち建てたのです。ちなみに、禅の
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系統に立つ人々は、初転法輪よりもむしろ成道を重視します。彼らは、釈尊のさとりを追体験し、それを体得することをめざしたのです。初転法輪において語ったこと、それを釈尊は、対機説法を駆使しながら、生涯にわたって説きつづけました。したがって、仏法とは何かという問題は、初転法輪の際に何が語られたのかを追究することをとおして、何らかの結論に達するものと考えられます。
ただし、初転法輪の内容は、釈尊自身が記録するところとなっていません。それゆえ、それを現代において再現することは、ほとんど不可能に近いというしかありません。しかし、苦からの解脱ということ、縁起説、あるいは三法印(さんぼういん)などを目安とし、それらを一つの一貫した論脈のうちに統合するならば、初転法輪そのものはともかくとしても、仏教の本義ないしはそれに近いものを再構成することは、かならずしも不可能ではないと考えられます。再構成による原初の仏法の再現。それは説明する者、解釈する者の思考の枠組みを媒介とせざるをえないがゆえに、真実そのものを浮き彫りにすることにはつながらないかもしれません。ですが、直接当事者によって書かれなかった思想を追う試みは、どうしても蓋然性の段階にとどめおかざるをえません。このことを踏まえたうえで、わたしは、以下、仏法とはもともといかなるものであったのかということ、すなわち仏法の原初の姿にできるかぎり迫ってみたいと思います。
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「四門出遊(しもんしゅつゆう)」の伝承などが伝えているように、釈尊は、俗世の人間生活を苦に充ち満ちたものととらえました。では、釈尊のいう苦とは具体的にどのようなものなのか、まずはそのことをあきらかにしておかなければなりません。釈尊は、人生の根本的な苦は「生(しょう)、老(ろう)、病(びょう)、死(し)」の「四苦(しく)」である、といいます。「生」を釈尊がどう解していたかをあきらかにすることは、かならずしも容易なことではありません。生まれることをさすのか、それとも生きること自体を意味するのか、判然としないのです。生まれることについては、わたしたちは十全な認識に恵まれていません。自分がどのようにして生まれてきたのかは、すでにわたしたちの記憶力の限界を超えてしまっている事柄だからです。ただし、それがけっして楽ではないことは、およその推察のつくところです。母親の胎内にいるとき、赤ん坊は羊水に浸(つ)かって、ほんわりとした安らかさにつつまれていたことでしょう。ところが、母親の狭い産道を通り、気候の変化の激しいこの世界へと生まれ出るとき、赤ん坊は言い知れぬ苦痛を感じるのではないでしょうか。だとすれば、赤ん坊が生まれ出たときに発する呱々(ここ)の声は、生まれた嬉しさを表わす歓喜の声ではなく、苦痛を訴える悲鳴なのではないかと推察されます。また、生きることが、老、病、死という苦しみを呼び起こす原因となっていることは、どのような角度から見ても否定できません。生きて在ることそれ自体は、時に快楽(たのしみ)を伴うこともあるでしょうが、それは、老、病、死につながっているという意味では、苦痛以外の何ものでもありません。釈尊は、こうした事実を踏まえて、「生苦」ということを強調したのでありましょう。とするならば、「生苦」とは、生まれることと生きることとを表わす、いわば二重の苦にほかならなかった、と考えられます。
つぎに、「老苦」です。古代ローマを代表する弁論家であり思想家でもあったマルクス・トゥリウス・キケロは、『老年について』(De senectute)という著書のなかで、こう語っています。「肉体の視力が衰えれば衰えるほどに、精神の視力はいや増しに増す」と。たしかに、人間は齢(よわい)を重ねるにつれて多くの経験を積むのであって、老人の豊かな経験が、若年者たちを導く指針になるという事態は、しばしば起こりうるでしょう。ですが、加齢とともに思考力やそれを支える記憶力が次第に劣化してゆくことは、厳然たる事実です。身体能力全般が衰えることなども勘案するならば、老いることはけっして楽しいことではなく、むしろ苦痛であるといってよいでしょう。老苦を人間の根本的な苦の一つとする釈尊の認識は、いたって妥当なものであるといえます。
病(やまい)が苦しみであることは、ことさらに論ずるまでもないと思います。病は身心に不如意をもたらしますし、重篤になれば死と背中合わせになります。病を患うがゆえに、人生をめぐる思念、すなわち生死の思索が深まるという事態も起こりえないわけではないでしょう。しかし、その場合にも苦の意識は消えないと思われます。仄聞するところによれば、病は多忙な人々に与えられた休息であると説くむきもあるようですが、それは、軽度の病についてのみ当てはまることではないでしょうか。
「死苦」は「生苦」とならぶ最大の苦です。病苦や老苦にあえぐ人々は、死はすべての苦しみを取り除いてくれる恵みのようなものだと言うかもしれません。もし、死とともにあらゆる意識が消え果てるのだとすれば、たしかに、死ぬことによって、老、病の苦はお
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ろか生苦すらもなくなることでしょう。しかし、よくよく考えて見ると、このわたしの意識が消滅するということは、実に恐ろしいことです。わたくしどもと関わるすべての他者、すべての事物は、わたくしどもがそれらを意識すればこそ、その存在が確かめられるという態(てい)のものです。意識が消え果てれば、いっさいは非在であり、この世界、すなわちわたくしどもにとってのこの世は、まったくの虚無となってしまいます。いっさいがなくなる。これほどに恐ろしいことがほかにあるでしょうか。釈尊は、このことを冷静に認識しつつ、死苦を「四苦」のなかに位置づけたものと思われます。
実をいうと、釈尊のいう「四苦」は、生死(しょうじ)の二苦のうちに集約されます。老苦と病苦は、あきらかに死苦のうちに還元されますし、また、それらは、生まれ、そして生きていることを直接の原因として生ずるものだからです。病苦と老苦とを軽く見すぎることは、おそらく思考の短絡というものです。けれども、「生死の二苦」と言えば、そこにあらゆる苦が含まれることも事実です。そして、生死の二苦は、四つの具体相をとって人生のただなかにあらわれる、と釈尊は説きます。四つの具体相とは、「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」のことで、釈尊は、「生老病死」にこれらの苦を合わせて「四苦八苦(しくはっく)」と名ざします。
愛別離苦とは、どれほどいとおしいと想っている相手とも、いずれはかならず別れなければならないという悲苦です。わたくしどもは、この世を生きているかぎり、かならずだれかを愛します。ところが、愛する人は常住(じょうじゅう)ではありえません。わたくしどもの前から去るという形で、あるいは死んでしまうことによって、かならずいなくなってしまいます。これを苦としない人は、この世のなかに一人としていないのではないでしょうか。かりに、愛する人が去りもしなければ死にもしないとしても、愛を差し向けている「わたし」自身は死を免れることができません。かくて、愛別離苦は不可避の痛苦、この世にあるかぎり絶対に避けられない悲苦と考えられます。これは、人生においてもっとも辛い苦しみだと断言してもよいでしょう。
これにくらべれば、怨憎会苦、すなわち憎くかつは怨めしく思う相手と会わざるをえないという苦しみは、さして辛いようには見えないかもしれません。憎らしく、かつは怨めしい人間とは、できるだけ会わないようにすればそれで事は済む、とわたくしどもは考えることでしょう。ですが、職場や学校を同じくしている場合、まったく顔を合わせないというわけにはまいりません。憎くて怨めしい人間とも、どうしても面と向かってことばを交わさなければならないというのが、わたくしどもの日常生活の実態です。釈尊は、この実態を冷静に見きわめていたのでしょう。
求不得苦とは、読んで字のごとく、求めて得ざる苦しみです。釈尊のような覚者、つまりさとった人は別として、わたくしどものような凡愚(ぼんぐ)は、つねに、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)という「三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう)」にまみれています。心の底に巣くう根本的な愚痴(おろかさと無知)と貪欲(むさぼり)のゆえに、わたくしどもは、はじめから絶対に手に入れられないとわかりきっている人や物を得ようとしてあがきます。そのあがきは、得られないという事実への失望と相(あい)まって、激しい怒り(瞋恚)を呼び起こします。怒ることは苦しいことです。釈尊は、この点に関しても、人間生活の実情を鋭利に見つめていると申せましょう。
五蘊盛苦は、「四苦八苦」のうちの他の七つの苦にくらべると、かなり説明のむずかしい苦です。釈尊が具体的にこれをどうとらえていたのか、すくなくともわたしには理解のおよばないところです。いまは、かりに以下のように解しておきたいと思います。すなわち、五蘊(ごうん)とは、人間を構成する、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょ
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う)、識(しき)の五つの根本要素であり、これらの活動が必要以上に盛んになることが、五蘊盛苦だと考えられます。煩瑣にわたりますので、五蘊一つ一つについての逐語的な説明はやめておくことにいたします。いまはただ、色は身体のはたらきのことで、受、想、行、識は心の作用を表わすとのみ申し述べておきます。要するに、五蘊盛苦とは、身心のはたらきが盛んになることだといってよいでしょう。ですが、ここに腑に落ちない点が生じます。何事であれ盛んなことは善きこと、楽しいことではないか、ましてや身心のはたらきが盛んだとすれば、それほどにめでたいことはほかにないではないか、という常識的観点からの疑問が湧くのです。たしかに、身心のはたらきが盛んになれば、人間生活は躍動するように思えます。しかし、実はここに大きな陥穽(かんせい)があります。人間は、身心のはたらきが盛んになりすぎると、在るべき自己を見失い、往々にして苦に陥ってしまうものなのです。
たとえば、ここに、身心が盛んに活動して、経済活動に大成功し、人生を何度くりかえしたとしてもまったく不自由しないほどの多額の財、莫大な富を得た人がいるとしましょう。その人は、もはやお金もうけのためにあくせくする必要がないわけですから、平穏で快楽(たのしみ)に満ちた生を送れそうに見えます。ところが、実際にはそうはゆきません。その人も人間ですから、貧(とん)、瞋(じん)、痴(ち)の煩悩に引きずられているにちがいありません。多額の財を手に入れたにもかかわらず、それに満足することができず、もっとたくさん手に入れたいという欲望に取りつかれることでしょう。かりに、そこまでの強い欲動は湧かないにしても、いま手にしている財を失いたくない、減らしたくない、と思うのではないでしょうか。もっと手に入れたいと欲望をふくらませることはもとより、失うまいとして気を張ることも、苦痛以外の何ものでもありません。あるいは、講義中に身心のはたらきが盛んになってしまった学生のことを考えてみましょう。その学生は、講義内容以外のさまざまな事(こと)・物(もの)に気を取られて、注意力が散漫になり、講義に集中できなくなることでしょう。いわば精神の散乱とでもいうべき事態に見舞われてしまうのです。講義中の学生にとって真の快楽(たのしみ)とは、講義内容を的確に聞き取って、それをみずから独自に思索するための糧(かて)となすことではないでしょうか。だとすれば、精神の散乱という事態は、彼にとって苦以外の何ものでもないことになります。釈尊の説く五蘊盛苦がどのようなものであるのか、それは、以上のような具体例に即して考えれば、次第にあきらかになってくると思われます。
釈尊は、人間を類型的に区分けするために、あるいは、単に人間精神の態様を分析することのみをめざして、「四苦八苦」を説いたわけではありません。釈尊が企及(ききゅう)したのは、人間が四苦八苦に苦しんでいる実情を冷静に正しく見きわめ、同時に、そうした苦から脱却するにはいかに考え、どう振舞えばよいのかを、人々に教示することでした。つまり、「苦からの解脱(げだつ)」はいかにすれば可能になるかという問題について考え抜いたうえで、その成果を衆生(しゅじょう)に向かって呈示し、ひいては彼らを煩悩の迷いのなかから救い出すことこそが、釈尊のめざすところでした。では、釈尊は、わたくしどもはいったいどうすれば、いかように考えれば苦から解脱できるというのでしょうか。先に述べたように、これは、釈尊に説法をためらわせるほどの難題でした。この難題に向き合い、それを解きゆく釈尊の姿を跡づけることは至難であるといわざるをえないようです。ですが、それを跡づけないかぎり、仏法とは何かという問いは、おそらく何の回答も得られないでしょう。困難の前に立ちすくむことなく、わたしはさらに一歩を進めてみたいと思います。
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釈尊は、諸行無常(しょぎょうむじょう)ということを強調します。いっさいの事物は永遠ならざるもの、すなわち常住(じょうじゅう)ならざるものだ、というのです。この考えかたは、萬葉の時代にわが国にも受容され、平安期以降には、基調低音となって日本文化・文芸・思想の底流を形成しつづけたといっても、けっして過言ではありません。ただし、わが国の無常観は、万事万象の変化を「哀れ」ととらえる美的感性に裏づけられて、言ってみれば湿潤な無常美感へと変容されていったように見うけられます。諸行無常と説いた仏法の無常観は、本来もっと乾(かわ)いた思想でした。情に訴えることなく、淡々と理知的に事物の態様を把握する。それが、釈尊の無常観でした。その無常観と、日本において伝統化された無常美感とのあいだには、いささか落差があったようです。その落差に気づいたのでしょうか、親鸞は、みずからがそのなかに位置する日本思想の文脈に沿った形では、無常ということをいっさい語りませんでした。親鸞は、仏法の枠組みから外(はず)れることを怖(おそ)れるがゆえに、あえて無常美感から距離を置こうとしたのかもしれません。
釈尊が諸行無常ということを強調するのは、以下のような思索に基づいてのことです。すなわち、釈尊は、わたくしども人間存在の根本構造を怜悧に見据えていました。現代の生命科学の論者たちにとってはあまりにも当たりまえすぎて、論ずるに価(あたい)しないことかもしれませんが、わたくしども人間をも含めたすべての生物は、その細胞の次元で、瞬間ごとに生成と消滅とをくりかえしています。「わたし」は、この刹那(せつな)に滅んでつぎの刹那に以前とは少しばかり異なる様相を帯びて再生されます。換言すれば、「わたし」は時々刻々と変化し、一刹那のあいだも、不変の「わたし」、「わたし」そのものなどではありえない、と申せましょう。この世のどこをどう探してみても、変わらない「わたし」、常住の「わたし」などというものは、けっして存在しえないのです。釈尊はこの事実に基づいて、いっさいは無常であると語ったのであって、流れ去る河水を眺めて涙するような感傷とはまったく無縁でした。このように、いっさいは無常であるとすれば、俗見によって実在するかのように見えている事物は、その本質において、空無であることになります。ここに、すべての存在者は実体化されえないという認識、すなわち、釈尊のいう諸法無我(しょほうむが)ということが成立します。
いっさいは空にして無であるということは、あらゆる事物がそれ自体としては「無自性(むじしょう)」であることを意味しています。無自性とは、自性すなわち本性(ほんしょう)がないということです。本性とは、事物がそれを欠いたならばもはや存在しえなくなってしまうところのもの、つまり本質を意味します。釈尊は、いっさいの事物は、それを成り立たせているような本質をもたない、といっているのです。いささか同語反復的になることを怖れずにいえば、無自性なるもの、本質を欠いている事物は、どこにも定在(ていざい)の場をもちません。わたくしどもの常識の目で実在ととらえられているものは、物自体としては実は非在であるということになります。物自体、物そのものの実在を否認する考えかた。それが諸法無我ということなのだ、と申せましょう。よく知られているように、カントは『純粋理性批判』において、理論理性たる純粋理性は物自体を認識できない、と主張しました。釈尊は、カントを遡ることおよそ二千三百年前に、すでにこれと同様の主張をしていたといっても、あながち失当ではないでしょう。
物自体、ひいては事自体がとらえられないとすれば、物や事の具体相もまた把握できないことになります。なるほど、現象としての物や事が、わたくしどもの眼前に見えて在ることはたしかなことのようです。しかし、そうした、現象としての物や事は、物そのものや事そのものではありえず、そのかぎりにおいて非在であるというしかありません。四苦八苦は、現象としての物や事に根ざした諸々の事象や事態に関連して生じます。ところが、現象としての物や事は、あくまでも非実体です。となれば、苦をもたらす諸要素はすべて実体性を欠いているわけで、それらに基づいて苦を感じるという心の在りようは、物や事についての正しい認識(正見(しょうけん))から乖離(かいり)した、迷妄なる錯視(さくし)ということになります。わたくしどもは、自分が苦をいだいていること自体が迷いであることを知り、正見をもってその迷いの内実を的確にとらえるとき、すべての苦から脱却することができます。釈尊は、このことをもって「苦からの解脱」と名ざすのです。いっさいの苦、四苦八苦は、実体性のないものを実体ととらえる迷妄から生ずる。その迷妄を正見に基づいて棄却(ききゃく)したとき、人々は「苦からの解脱」を果たす。釈尊はそのように説いているのです。
しかしながら、わたくしどもの日常的で常識的な考えかたからすれば、いっさいは空無であるという認識は、この世界の実相から大きくずれているように見えてしまいます。たとえば、わたしの場合ですと、目の前に机や原稿用紙やペンがあり、窓外に視線を投げればそこに庭木があるということを否定することができません。机、原稿用紙、ペン、庭木などが、すべて実体性を欠いているなどという主張こそ迷妄なる錯視ではないか、と日常生活者としてのわたしは考えてしまいます。わたくしどもの常識は、いわゆる素朴実在論に立脚しています。この素朴実在論のまさに素朴で無反省的な枠組みにとらわれているかぎり、日常の事象や事態を精確に認識できないであろうことは、重々承知しているつもりです。にもかかわらず、わたしは、自身の近辺の事物や、ひいてはそれらを見聞きしてい
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るわたしそのものが在るということを、どうしても否定できません。このようなわたしの考えかたに対して、釈尊はいったいどのように語るのでしょうか。
おそらく、釈尊は、ここで「縁起(えんぎ)」ということを持ち出すのだと思います。たしかに、この世界のなかの諸々の事物は、一見すると、独自の実在性を保ちながら、実際
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にいまここに厳として存在するかのように見えます。しかし、釈尊によれば、それらは
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「縁」によって生「起」しているにすぎません。縁とは、もっとも端的にいえば、関係性という意味です。あらゆる事物は、関係性のなかでその仮現的実在を、いわば幻視(げんし)されるというのが、わたしが右に提起した素朴実在論に対する回答のように見うけられます。たとえば、わたしの目の前の原稿用紙は、それを載せる机との関係性のなかで、あ
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るいは、それにペンで文字を記すわたしとの関係性のなかでいまここに生起(しょうき)して在るのであって、原稿用紙そのものなどというものが、それ自体で独自に存在しているわけではないというのが、釈尊の考えかたです。
ふだん、わたしは、わたし自身として、つまりわたしそのものとして、いまここにわたしが存在すると信じています。けれども、釈尊にいわせれば、それは錯覚でしかありません。釈尊はいうのです。伊藤益なるものが在るにせよ、それは「~として」という関係性のなかでのことでしかない、と。現実生活において、わたしはたしかに、「伊藤益」なるものを生きています。あまり深く考えなければ、伊藤益は伊藤益であって、それ以外の何ものでもないと断定できるかもしれません。しかし、よく考えてみると、伊藤益が伊藤益たりうるのは、他者との関係性のなかでのことだということがわかります。たとえば、伊藤益は、妻の夫として、娘たちの父親として、あるいは筑波大学の学生たちや院生たちの元教師として在るのであって、その「~として」という関係性を取り払ってしまえば、伊
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藤益なるものは、もはや何らの実在性ももちません。要するに、伊藤益そのものなどというものは、この世界のどこにもないのです。万が一、いっさいの関係性から離れた伊藤益が在りうるとしても、その場合、伊藤益は、自己を伊藤益と名ざすことができないし、また、そうする必要性もないということになるでしょう。
いま(二〇二一年)から十五年ほど以前のことだったでしょうか。「自分探しの旅」という事(こと)の端(は)(ことば)が流行(はや)ったことがありました。職場の上下関係や学校の交友関係のなかに在る自分はほんとうの自分ではない。いっさいの関係性から解き放たれた「真なる自分」がどこかにいるのだ。人々は、そのように信じて、ただ自己の内部にのみ自己自身を求める、いわば自己内旅行に出かけました。しかし、だれひとりとしてその旅に成功を収めた人はいなかったようです。当然の成りゆきだと思います。釈尊
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の説くように、「~として」という縁を離れきった自己自身など、どこをどう追い求めて
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みたところで、生起しうるはずがないのですから。
釈尊のいうように、わたくしどもをも含めたあらゆる事物の実態は、空無にほかなりません。諸法無我、つまり、すべての事物は主我(主語)主体をもたないということです。このように、主我主体が空無であるとするならば、かりに苦を導く事象や事態が何らかの事情で生起したとしても、そうした事象や事態は主体(主語)を欠落させているわけですから、もはや苦自体が成立しません。かくして、わたくしどもは、完璧な形で苦からの解脱を果たすことができる。釈尊は、そのように説いているのだ、と考えられます。ただし、主我主体が空無に帰するという事態は、自然に起こる現象ではありません。おのずからに主我が消え去るということ、すなわち「我無」ではないのです。それは、「我(われ)」が「我(が)」を消すということ、いいかえれば「無レ我」(我を無(な)みする)であるはずです。釈尊は、自然に我(が)が消え去るのを待ったのではなく、みずから意図し
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て我(が)を消し去ったのです。意志的に我を消し去るにあたっては、釈尊といえども、かなりの困難が伴ったにちがいありません。それこそまさに、本真(ほんとう)の意味での苦であったことでしょう。では、そのような苦に耐えてまで釈尊が主我主体の抹消を図ったのは、いったいなぜだったのでしょうか。
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我(われ)が我(が)を消し去ること。釈尊滅後に釈尊の思想や生きかたを追体験しようと志した多くの仏者たちは、それを我執(がしゅう)を消すことと解してきたようです。我執(がしゅう)とは、我(が)にまつわるさまざまな煩悩のことです。ならば、無我になるということは、煩悩がなくなった情態に立ち至ることを意味していることになります。たとえば、浄土真宗の教義学者や布教者たちが、真我(しんが)とは無我のことだと語るとき、彼らは、我(が)を残存させたまま、その我(が)から煩悩を取り払おうとしているものと解せられます。もとより、釈尊が煩悩の除去をめざしたことは、否定しようのない事実です。しかしながら、釈尊が、我(が)を残したまま、ただ単にそこから煩悩を取り去ろうとしたにすぎないと解するとすれば、それは失当以外の何ものでもないでしょう。釈尊は、煩悩はもとよりのこと、煩悩がそこから生ずる起点としての我(が)そのものを消し尽くそうとしたのです。
人は疑問を呈するかもしれません。我(が)を消尽(しょうじん)させてまったくの無我になったとすれば、われわれはもはや何も考えられなくなるし、その意味で死んだも同然ではないか、と。仄聞するところによれば、先の大戦で特別攻撃隊員として出撃しながらかろうじて生き残った旧日本軍の兵士が、こう述懐していたそうです。生き残る可能性が零の特攻出撃を強要されれば、人間は無になる、無になって何も考えられなくなって人は死んでゆくのだ、と。無になるということが求められるとき、人は、その思想的要請を素直に受け容(い)れてよいのかどうか、疑問とせざるをえないように思われます。もし、無我の先に他者にあやつられての死が待ち受けているとすれば、わたくしどもは、無我になることを徹底して拒絶しなければならないと思います。ですが、釈尊は、生きながらにして死人となることを願って無我を求めたわけではありません。釈尊の無我の思想は、無残で無意味な死を求めるものではなく、豊潤ともいうべきすぐれた目標を見定めるものでした。すなわち、諸行無常を認識することをとおして諸法無我を説くに至った釈尊は、諸法無我の果てに、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)を求めていたのです。涅槃寂静とは、わたく
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しども有情(うじょう)が、静かで落ち着いたさとりの境位に達することにほかなりませ
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ん。さとりを体験したことのないわたしのような者が、その境位を日常言語をもって説明づけることなど、とうてい可能ではありえません。ですが、それが正見(しょうけん)をもって人間精神の在るべき相貌(すがた)を見究(みきわ)めうる情態をさすことだけはたしかなのではないか、と思われます。釈尊はみずからの精神のみならず、他の多くの人々の精神が、その境位にまで到達するための大前提として無我の思想を説いたのでした。それゆえ、無我になるということは、すくなくとも釈尊においては、無残で無意味な死につながってなどいない、というべきでしょう。
しかし、無我になるということ、すなわち、みずから意図して我(が)を抹消するということは、論理的な意味で、決定的ともいうべき一つの困難を伴っています。我(われ)が無我となるためには、我(われ)が我(われ)を消さなければなりません。厳密にいえば、もう一人の我(われ)が我(われ)を消すのです。そうすると、抹消された我(われ)の跡にもう一人の我(われ)がとどまることになります。とどまっているもう一人の我(われ)を、さらに第三の我(われ)が消さないかぎり、無我は達成されません。かくして、論理的には、我(われ)が我(われ)を抹消するという営みは、どこまでも無限につづくことになってしまいます。これは、哲学の用語で言い表わすならば、「無限遡行(むげんそこう)」です。釈尊がそれについて語っていない、あるいは、かりにそれを意識していないとしても、無我の思想が、こうした無限の系列を開示してしまうことは、厳然たる事実ではないでしょうか。
因明(いんみょう)というインドの論理学に通じていないわたしは、残念ながら、インド哲学が無限遡行をどうあつかうのかを知りません。「劫(こう)」を積み重ねた非量数(ひりょうすう)をすでに知っていたインド哲学にとっては、「無限」という事態は既知の事柄であり、したがって、無限遡行を論理上の難点としてことさらに問題視する必要はなかったのかもしれません。また、もし、インド哲学が「即自→対自→即かつ対自→即自→対自→即かつ対自→即自……」という無限進行の過程を螺旋状(らせんじょう)に描く弁証法を熟知していたとすれば、その場合にも、やはり無限遡行は克服されるべき論理上の困難とはなりません。しかし、ここでは、釈尊は、常識的な思考方法に基づいてみずからの思索を展開した、と解しておくことにいたします。『スッタニパータ』などの初期仏典を見るかぎり、釈尊は、日常言語に根ざしながら物事の本質を考えようとしたのであって、日常性を超えた特殊な思惟型式を好まなかったと考えられるからです。
ならば、無限遡行は回避されなければなりません。無我の思想が無限遡行をもたらすのは、主体我を消し去るものは主体我であると考えるからです。つまり、我(が)を実体として定立させるがゆえに、もう一人の実体我(じったいが)が想定されざるをえず、そのもう一人の実体我がさらに別の実体我を求めるということになってしまうのです。ここでは、我(が)を定在(実体)と見る、実体論的誤謬(じったいろんてきごびゅう)が生じているというべきでしょう。とすれば、無限遡行を回避する試みは、いかにして実体論的誤謬を避けるべきかという問題になってきます。いうまでもないことですが、実体論的誤謬を実体論的に解消することは許されません。当然ながら、事は作用論もしくは作用論的方法と深く関わってくるものと予想されます。では、無我の思想における作用論は、どのようなものとして想定されるのでしょうか。
釈尊において、無我になるということは、この現実世界の自己(我(が))を絶対的に否定することを意味しています。とすれば、釈尊は、「絶対的自己否定性」という作用・はたらきを措定(そてい)しているはずです。絶対的自己否定性は、いったいどこにあるというのでしょうか。釈尊は、それを、この現実世界のまっただなかに特定の場所を占めて在るものとは考えなかったにちがいありません。もし、そのように考えたとするならば、絶対的自己否定性は実体化されてしまい、つまるところ、無我にまつわる無限遡行は回避されえないことになります。したがって、釈尊にとって、絶対的自己否定性とは、物(もの)や事(こと)となること、つまり実体となることを峻拒(しゅんきょ)して立つ作用そのもの、はたらきそのものにほかならなかった、と推断されます。それは、どこにも具体的に位置づけられることなしに、ただ宙をただようのだと考えるべきでしょう。いまここに在る我(が)が、この絶対的自己否定性のなかに入り込むことによって無我が成り立つ。あるいは、宙をただよう絶対的自己否定性が我(が)のなかに滲透(しんとう)することによって、我(が)は我性(がしょう)を完全に無(な)みされて、真の意味での無我となる。釈尊は、おそらく、そのように考えたのだと思われます。
いっさいの実体性を排除する純粋能作(のうさ)としての絶対性が、特定の場所とは無縁にこの宇宙のなかを浮きただよっているなどと説くのは、形而上学(けいじじょうがく)の衣(ころも)をまとった神秘主義にすぎない、日常世界で日常的に思索することを大切にした釈尊が、そのような形而上学的神秘主義に与(くみ)するはずはない。そう批判するむきもあることでしょう。しかし、たとえば、もっとも現実的に、したがって非形而上学的に思惟する現代の宇宙物理学においては、けっして実体化されえない純粋な作用そのものとしての「暗黒の熱量(ダークエネルギー)」が、天体などの諸実体の成立根拠として措定(そてい)されています。このことに思いを致すならば、純粋能作(はたらきそのもの)としての絶対的自己否定性を想定することは、かならずしも形而上学的神秘主義とはいえないように思われます。すくなくとも、絶対的自己否定性の我(が)への滲入、あるいは逆に、絶対的自己否定性への我(が)の透入という事態を想定しないかぎり、釈尊の無我の思想を、一貫したもの、矛盾のないものとして解きあかすことは不可能だと申せましょう。釈尊が絶対的自己否定性を念頭に置いていた可能性は、けっして低くはないと思われます。では、釈尊はなぜ、これほどまでに複雑な思考をめぐらせてまで、無我の思想にこだわったのでしょうか。この問いは、おそらく、仏法のもっとも本質的な部分に関わってくるものと推測されます。
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わたしの、仏教学の恩師三枝充悳(さいぐさみつよし)先生は、釈尊は「慈悲」ということにはあまり注意を払わなかったようだ、といっておられました。慈悲とは、「与楽抜苦(よらくばっく)」のことで、他者の悲しみや苦しみに寄り添い、それを取り除いて他者の心を安らかなものにしようとすることを意味しています。もし、釈尊が慈悲に重きを置かなかったとすれば、仏法は、己れの目覚め(さとり)を主眼とするもので、利他(りた)の精神をその核心とするものではなかったことになります。初期仏典の内在的で文献学的な考察に基づくならば、そのように解釈することも可能になってくるのかもしれません。三枝先生は、卓越した文献学者でした。先生のお考えが、文献学的に誤っているなどということはありえないだろうと思います。しかしながら、釈尊の無我の思想を、その論理の面から追思(ついし)するならば、先生の解釈が絶対的に正しいとはいえなくなってくるようです。
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我(が)を無にするということは、単に、さとりに通ずる途(みち)の一歩をなすにとどまるものではありません。諸法無我(しょほうむが)が涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)につながってゆくことは否定できませんが、無我となることは、単に自己が真理に覚醒(かくせい)することのみを意味しているわけではないのです。それは、無になるということがどのような事態を導くのかを、具体的に考えてみることをとおしてあきらかになると思います。己れが無になることは、もちろん我執を離れることを意味していますが、それと同時に、あらゆるものを受け容れることができるということでもあります。無我とは、我(が)なる場
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所に何ものも存在しないことです。そこに何も存在しないとすれば、そこでは何の衝突も
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起こりません。ですから、あらゆるものがそこに入りうることになります。すべてを無条件に受け容れられるということ、それは根源的な愛を意味しています。愛は、「愛執」「愛著」などと熟し、仏教ではかならずしもよい意味ではとらえられないようです。仏法の文脈を重んずるならば、人は己れを無にすることによって「慈悲」の境位に立つのだ、というべきでしょう。かくして、無我の思想は慈悲の思想を裏うちすると考えられます。
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釈尊は、ただみずからさとりを得ることだけをめざして、無我の思想をうち建てたわけではなかったのです。釈尊は、慈悲を貫徹することを意図して無我の思想を説いた、といってもけっして失当ではないでしょう。
釈尊は、紀元前四世紀の初頭ころに、八十歳をもって入滅しました。その後、釈尊の教団は、釈尊の教えをそこに何も加味することなく忠実に継承してゆこうとする上座部(じょうざぶ)仏教と、釈尊の教えにしたがいつつも、そこに時代の変化に応じた改革を施してゆこうとする大衆部(だいしゅぶ)仏教とに分かれました。上座部と大衆部とをあわせて部派と称します。総計二十を数えた部派は、インド中央域から南方へと伝えられてゆきました。その勢威は、けっして小さなものであったわけではありません。しかし、紀元前後になると、部派の教勢は急激に弱まってしまいます。イラン方面やギリシア方面から、異民族の大規模な侵入があったからです。インド原住の人々は、異民族の支配下で塗炭(とたん)の
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苦しみをなめます。彼らは、家族や親族を虐殺されたり、あるいは家畜などの生活のたず
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きを奪われたりして、それ以上はありえないほどの苛酷な情況に置かれました。その際、
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ただ個人のさとりと僧伽(さんが)の安寧(あんねい)を希求するだけの部派の仏教は、民衆を救うための具体策を講じることができませんでした。部派の仏法は、対社会的にはまったく無力だったといっても過言ではないでしょう。そこに登場したのが、大乗(マハーヤーナ)の教え、すなわち大乗仏教です。
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大乗仏教は、けっして個人のさとりということを軽視したわけではありません。仏は一人だけではない、仏性(ぶっしょう)を有する人間はそれを磨けばみな仏(ぶつ)になれるという大乗の教えでは、願作仏心(がんさぶっしん)(仏になろうとする心)ということが強調されます。しかし、大乗仏教は、それよりもむしろ度衆生心(どしゅじょうしん)を、すなわち、苦にまみれた衆生を救うことを重視します。場合によっては、己れを度(ど)する前に他者を度(わた)せ、と説くのです。この教えは、異民族の圧政に苦しむ民衆の心に響きました。それは、部派の教勢をしのぐ大きな波動となって、北方の諸地域、たとえば、西域、中国、モンゴル、朝鮮、そして日本にまで伝わってゆきました。部派は、大乗は釈尊の教えではないと主張したようです(大乗非仏説)。たしかに、大乗の有する社会性は、原初の仏法にみとめられる個人性を大きく超えているのかもしれません。しかし、願作仏(がんさぶつ)という自利を求めながらも、時にそれ以上に度衆生(どしゅじょう)という利他を企及(ききゅう)する大乗は、釈尊の慈悲の思想をまっすぐに承(う)け継(つ)ぐ仏法だといっても誤りではないでしょう。釈尊の慈悲の思想は、大乗の確立とともに大輪の花を咲かせ、普遍化したという見かたすら成り立つ、とわたしは思います。
浄土教は、大乗の支脈をなす教えです。一見すると、釈尊が説かなかった死後世界として浄土を措定するかのように見える浄土教は、仏法の枠組みからずれていると考えられるかもしれません。ですが、インド、中国の高僧たちや法然を経て親鸞に至ると、浄土は単なる死後世界ではなくなり、浄化のはたらき、人々の心を浄(きよ)めるはたらきとしての純粋能作(のうさ)というおもむきを呈するようになります。そこに釈尊の志向した絶対的自己否定性ということが何らかの形で絡んでいるとすれば、浄土教は、親鸞の登場をまって、仏法としての性格をいちだんと深めた、と申せましょう。
法然の『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』を読んだ華厳宗(けごんしゅう)の清僧明恵高弁(みょうえこうべん)は、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著わし、法然には菩提心(ぼだいしん)がないとして、彼を激烈に批判しました。親鸞は、主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』信巻のなかで、菩提心とは明恵の考えるような願作仏心にとどまるものではなく、度衆生心をも必然的に伴うものだとして、明恵に反論しています。親鸞は、自利のみではなく、そこに利他が加えられなければならない、つまり、「往相還相二種廻向(おうそうげんそうにしゅえこう)」が果たされてこそ、はじめて菩提心はまったき姿をとる、というのです。大乗の教え、ひいては釈尊の仏法をまっすぐに引き継いでいるのは、明恵ではなく親鸞であると断言してよいと思います。では、親鸞の仏法とは、具体的にどのような様相(すがた)をとるものだったのか。次回以後、この点を詳しく考えてみたいと思います。(二〇二一年八月三〇日稿)