私は、歴史学の視点および方法を基にして、親鸞やその関係の人たちの伝記を研究しています。歴史学の視点というのは、たとえばある時代の人たちの常識にもとづいてものごとを考えていくということです。これもたとえば、「暁(あかつき)」という言葉は、現代人が思い浮かべる内容とは異なっていました。現代人は、暁といえば、朝、東の空が明るんでくる時間帯を思い浮かべます。違うのです。鎌倉時代では、それは「曙(あけぼの)」でした。暁は曙の前の、まだ真っ暗な時間帯のことだったのです。時間でいえば、午前3時・4時のころでした。この時間帯こそ、神仏が出現して導いて下さる神聖な時間帯でした。
恵信尼の書状第三通に、親鸞は、
やまをいでゝ、六かくだうに百日
こもらせ給て、ごせをいのらせ給
けるに、九十五日のあか月、しゃ
うとくたいしのもんをむすびて、
じげんにあづからせ給て候、
「比叡山を下りて、六角堂に百日の予定で籠られて、来世に極楽へ往生できるように祈られたところ、九十五日目の暁に、聖徳太子についての文章を唱え終った時、観音菩薩が出現されました」とあります。「あか月(暁)」にお告げをいただいたのは偶然ではなく、当時の常識に基づいていたのです。
また親鸞聖人が八十五歳の時に作った『正像末浄土和讃』には、その第一首の前に、いわゆる夢告讃が置かれています。それは、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」という和讃です。親鸞の信仰の本質をよく示した和讃です。
さらにこの和讃の前に、次の詞書があります。
康元二歳丁巳二月九夜、寅時の夢に告げて云く、
「康元二年(1257)2月9日の夜、寅の時に見た夢でさる仏菩薩からのお告げが次のようにありました」という文中の「寅時」とは、午前4時を挟んだ2時間で、まさに暁のことだったのです。この夢告讃が与えられたのも偶然の時間帯だったのではなく、当時の常識で与えられるべき時間帯だったのです。
後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』は、当時の流行歌を集めた歌集です。そのなかに、
仏は常に いませども
現(うつつ)ならぬぞ あはれなる
人の音せぬ 暁に
ほのかに夢に 見え給ふ
「仏様はいつでも私たちの周囲にいらっしゃるのですけれども、目にはっきりとは見えないところがすばらしいと思います。仏様は人が寝静まってその声も聞こえない暁に、夢のなかでかすかに拝見できるのです」とあります。まさに仏は暁に出現されるということが当時の常識として存在していたことが分かります。
他方、当時の結婚形態は男の通い婚が一般的でした。夕方、仕事を終えた男が妻(恋人)である女性の家に行き、夕食を食べさせてもらい、寝かせてもらって翌朝自分の家に帰るのです。では、翌朝といっても何時ころに女性の家を出るのか。これも常識があったようです。清少納言の『枕草子』第60段に、
人はなほ暁のありさまこそ、をかしうもあるべけれ。わりなくしぶしぶに起きがた
げなるを、強ひてそそのあし、「明け過ぎぬ。あな見苦し」など言はれてうち嘆く
気色 も、げに飽かずもの憂くもあらむかし。
「男性というものは、やはり暁の態度にこそ、その心が示されるというものですね。目は覚ましても嫌々で起きたくなさそうなのを、女性に「もうすっかり明るくなってしまいましたよ。早く帰らないと世間体が悪いわ」など無理に起こされ、がっかりしている様子を見ると、ほんとうにもっとその女性と一緒にいたいのだなと思わせます」。
なんと暁は男性が妻または恋人の家から帰る時間帯でもあったのです。むろん、暁は季節によって時間が少しずれます。冬ならば午前5時前後にまでなることもあるでしょう。夏ならば4時でももう明るいですから、午前3時過ぎにはもう起きて帰宅の準備、ということでしょうか。
いま、この原稿を書いているのは6月後半です。まもなく一年で夜が最も短い夏至が来ます。2015年の東京の夏至の日の出は午前4時26分、冬至の日の出は午前6時47分だそうです。日の出の前に曙という時間帯があり、その前に暁があるのですから、夏至の通い婚の男性たちは完全に寝不足だったでしょうね。
【2015年5月・6月の活動】
著書の出版:ここでは、私の本年5月・6月の出版などについて記します。
《著書》
➀「歴史を知り、親鸞を知る」❽『親鸞聖人の越後流罪を見直す』
(自照社出版、2015年6月30日)
従来、親鸞の越後流罪は国家の弾圧、越後へ行くのは困難な道のりだった、越後での生活は田や畑の泥にまみれて大変だった、などというように思われていました。しかし歴史学的に綿密に分析していくと、それらは虚構であったことが判明します。私たちは、流罪・流人といえば、江戸時代の‘鳥も通わぬ八丈島へ流されて苦しい生活を強いられた’というイメージを鎌倉時代の流人にも重ね合わせてしまっていたようです。でも、それは誤りです。
《論考》
➁「地獄と閻魔大王」(連載「悪人正機の顔」第4回)
『自照同人』第88号(2015年5・6月号、5月10日)
鎌倉時代、地獄には閻魔大王を始めとした裁判官が大勢いて、亡者の生前の悪行を厳しく糾弾すると思われていました。この連載第4回ではそのことを取り上げて分析したものです。
【連載・親鸞聖人と稲田(16)】
―稲田頼重の兄塩谷朝業⑵―
➀ 源実朝の暗殺と公暁
塩谷朝業は鎌倉幕府の将軍源実朝と親しかったことを前回で述べました。その実朝は、承久元年(1219)、公暁という鶴岡八幡宮寺の別当に暗殺されました。公暁は実朝の兄源頼家の長男でした。兄が伊豆修善寺で討たれた後、実朝の養子になっていました。
源頼朝
┠――頼家――公暁
┃ └実朝
┌北条政子
└ 義時
公暁には黒幕がいたに違いない、それは誰かということがずっと問題になって来ていま
す。長い間、それは執権北条義時であったろうとされてきました。しかし永井路子氏が1964年に小説『炎環』(光風社)を書いて大豪族三浦義村であると説いて、大きな反響を
呼びました。その後、後鳥羽上皇黒幕説、公暁単独犯説なども出ています。決着はついて
いません。
➁ 「公暁」の読み方は「コウキョウ」
ところで、公暁の読み方は「クギョウ」と読むのが現代では一般的になっています。し
かしもともとは「コウキョウ」だったようです。公暁の師弟関係を見ると公顕―公胤―公
暁となっています。この公顕は「コウケン」、公胤は「コウイン」と読んだことが鎌倉時代の史料で確認されています。したがって公暁も「コウキョウ」であったろうという推測が成り立ちます。実際、『承久兵乱記』に「コウキャウ」、『承久軍物語(じょうきゅう・いくさ・ものがたり)』には「コウケウ」と書かれています(館隆志「公暁の法名について」『印度学佛教学研究』61-1、2012年)。『承久兵乱記』は鎌倉時代後期~南北朝時代『承久軍物語』は江戸時代後期の成立です。いずれも承久の乱を描いた『承久記』(鎌倉時代中期成立)の一本です。
➂ 朝業の出家
朝業は、特に和歌を通じて実朝と心を深く通わせていました。しかし暗殺という思いが
けない事件によって突然主人であり親密な友でもあった実朝を失いました。それが原因で
朝業は現世に希望を断ち、故郷に帰ることにしました。年齢は四十一歳か、その少し前と
推定されます。
朝業は塩谷という名字を名のり、下野国中北部に広い領地を有していました。しかしも
とはといえば宇都宮頼綱の実弟ですし、塩谷朝義の婿養子として塩谷家に入った人です。
頼綱を惣領と仰いで宇都宮氏、合わせて塩谷氏の発展に尽くしてきました。元久二年(1205)、宇都宮軍が東の国境を越えて常陸国笠間郡に侵攻を開始したころ、宇都宮氏は北条氏の内紛に巻き込まれ、あわや一族が滅びるという危機に立たされました。惣領の頼綱は出家引退の形を取って、なんとかこの危機を乗り切り、笠間占領を成し遂げました。ただ鎌倉幕府には頼綱に替わって朝業が出仕するようになりました。
以来14年、宇都宮氏の勢力発展はすっかり軌道に乗っていました。笠間郡の支配は順調に進んでいました。親鸞一家が笠間郡稲田に入ったのはこの間の建保2年(1214)でした。
実朝の暗殺後、朝業は本貫地(本拠地)の塩谷郡川崎城に帰り、出家しました。出家することは、当然ながら執権北条義時の了承を得てあったはずです。
➃ 宇都宮氏の惣領
この後、宇都宮一族の惣領は頼綱の息子泰綱になりました。泰綱は建仁二年(1202)生まれ、実朝暗殺の時には18歳になっていました。実は兄(異母兄)が三人いましたが、泰綱は母が北条義時の妹でしたので宇都宮家の惣領となれたのです。また泰綱の同母妹は和歌の藤原定家の後継者である為家の妻となっています。
ただ、宇都宮家の実権はずっと頼綱が握っていたようです。ですから朝業が出家して幕府出仕を辞めても、宇都宮家としては大きな問題はありませんでした。さらに実朝暗殺の時、泰綱の長兄(異母兄)時綱の年齢は不詳ながら、次兄(時綱同母)または三兄の横田頼業は二十五歳になっていました。時綱・頼業ともに幕府に出仕して活躍していました。
泰綱が宇都宮惣領を実質的に受け継いだのは、嘉禄二年(1226)のころでした。泰綱は26歳になっていました。
宇都宮頼綱―――上条時綱
┃ └秋元泰業
┃ └横田頼業
┠―――――泰綱
北条義時の妹 └女子
┃
藤原定家――――為家
➄ 上京して証空に入門する
朝業は承久二年(1220)に京都に上り、法然の門弟で西山に住んでいた善慧房証空の門に入りました。兄頼綱が法然没後には証空の指導を受けていたからでしょう。法名は信生と名づけられました。
証空は法然が『選択本願念仏集』を著わした時、勘文(かんもん)の役を務めた人物です。勘文の役というのは、執筆者の意に添う文章を、無数の経典やその解説書(経・論・疏など)類から探し出してくる役です。証空は法然と話し合いながら、選択本願念仏説を証明する文章を探し出し、法然がその文章を使って論理的に書き進めていくお手伝いをしたのです。それは証空がまだ20代であったといいます。いかに証空が優れた人物であったかが分かります。
朝業は以後、証空に指導されつつ念仏の道に生きました。法然没後の遺弟としての意識が強かったそうです。
そのほか、朝業は信阿弥陀仏とも名のったと推定されています。寛喜2年4月付の「信阿弥陀仏寄進状」や「信阿弥陀仏置文」があり、この「信阿弥陀仏」は朝業のことであると推定されているからです(『喜連川町史』第六巻、通史編1、栃木県さくら市、2008年)
➅ 朝業の領地配分
朝業には3人の男子と2人の女子がいました。
朝業――塩谷親朝
└女子(益子継正妻)
└笠間時朝
└女子(小田貞宗妻)
└朝貞
塩谷氏の本領である塩谷郡一帯の本領は長男の親朝が継ぎました。次男の時朝には常陸国笠間郡を与えました。笠間郡侵入と占領は宇都宮頼綱の指揮のもとに行なわれたはずです。途中で頼綱の出家引退というできごとはあったにしても、本来は頼綱の子どもたちが受け継ぐべきものでしょう。それを朝業の息子である時朝が受け継いだということは、笠間占領からその後の支配における朝業の功績が大きかったことを頼綱が認めたことにほかなりません。
三男の朝貞については後に触れます。
参考:拙著『親鸞をめぐる人びと』「塩谷朝業」の項(自照社出版、2012年)
拙著『下野と親鸞』(自照社出版、2012年)