暖かなよい季節になりました。私はこの春、いろいろな機会に、さまざまな桜の花を見ることができました。ピンクの色が薄かったり濃かったり、また富山市へ講演に行った時にそこの護国神社で見たしだれ桜はとてもすばらしいものでした。幹の太さは両手一抱えには納まりきらないほどで、外に広がって垂れ下がる細い枝に濃いピンクの花が無数についていました。妖しい魅力を漂わせた、圧倒的な存在感でした。「願はくば 花の下にて 春しなん そのきさらぎの 望月のころ」と詠んだ西行法師もこの魅力に引き込まれたのかなと思わされました。
ただし西行法師のころの桜の花の色は、かなり淡いピンク色でした。明治時代以降、品種改良によってさまざまな色の桜の花が生みだされて現在に至っています。
同じ日本列島に住みながら、親鸞聖人の見た春の景色と私たちの見る春の景色とは異なっている部分もあったのですね。
そういえば梅は平安時代に、イチョウは鎌倉時代に中国から日本に入ってきた植物だそうです。また秋によい香りをただよわせてくれるキンモクセイには雄の木と雌の木があり、日本にあるのは雄の木ばかりだそうです。日本のキンモクセイは可哀想ですね。
【2015年3月・4月の活動】
著書の出版:ここでは、私の本年3月・4月の出版などについて記します。
《著書》
➀『日本研究の修士論文と博士論文の書き方―文学研究を中心に―』
(国際交流基金カイロ日本文化センター、2015年3月1日)
日本語・アラビア語との対訳本です。本書制作の事情については、この連載第13回に述べました。本書の目次は、
まえがき
第1章 日本人と四季、および四季の歌
―日本を理解するために―
第2章 日本の伝統的文化
―京都を舞台にして―
第3章 日本人の伝統的な心
―五木寛之氏の小説『親鸞』を軸に―
第4章 日本文学研究を中心にした修士論文と博士論文の書き方
となっています。
➁「関東の親鸞シリーズ」⑫『五十六歳の親鸞・又続―相模国への布教―』
(真宗文化センター、2015年4月4日)
従来、相模国は親鸞が帰京するときの通過地点のように思われることが多かったといえます。しかし一切経校合のことも含めて、実際には相模国ではどのような活動があったのか、という観点で調査を進めるべきだろうと思います。この⑫はその観点でまとめました。
《論考》
➀「親鸞聖人の帰京」(連載「関東の親鸞聖人」➅)
『築地本願寺新報』2015年3月号
親鸞聖人の帰京について、稲田の見返り橋や箱根の笈の平の挿話を中心に述べました。この「関東の親鸞聖人」シリーズは、本号が最終回です。
➁「地獄に堕ちた平清盛」(連載「悪人正機の顔」第3回)
『自照同人』第87号(2015年3・4月号
『平家物語』などに、平清盛は生前の悪行によって地獄に堕ちたとされています。ではそれはどのような悪行であったのか、実際の清盛はどのような人物であったのかを述べました。
【連載・親鸞聖人と稲田(15)】
―稲田頼重の兄塩谷朝業⑴―
➀ 親鸞聖人の主な門弟は武士
第二次大戦後の昭和二十年代から三十年代にかけて、親鸞聖人の門弟は庶民すなわち農民であるという説が広まりました。この説は現在に至るまで大きな力を持っています。しかし、歴史的史料で見るかぎり、親鸞聖人の主な門弟は武士です。私たちはこのことを素直に受け入れるべきでしょう。
加えて、「親鸞聖人は野の聖」などというのも幻想です。親鸞聖人は食うや食わず、居所も定まらない放浪生活を送っていたのではありません。居所は主に稲田草庵で、そこの領主である宇都宮一族に守られており、妻の恵信尼さまや数人の子どもたちにも守られていたのです。稲田の直接の領主は、西念寺の伝えによれば稲田頼重です。親鸞聖人より十数歳の年下、宇都宮頼綱の弟でその養子でもあったとされています。
鎌倉時代は、どこから流れてきたかも分からない一家数人が勝手にそのあたりに住みつけるほど甘い時代ではありません。武士である宇都宮氏の許可を得て、またはその招きで稲田に住んだのです。
稲田頼重は、領地が稲田郷とその西にある福原郷の二つという小領主です。しかし背景には大豪族があったのです。
➁ 塩谷朝業の誕生
稲田頼重の兄数人のなかの一人に、塩谷(しおのや)朝業という人物がいました。頼綱の同母の弟です。
宇都宮朝綱――成綱(業綱)――頼綱――泰綱
(宇都宮)
└朝業――――――――――-親朝
(塩谷。幼名竹千代) (塩谷)
└頼重 └時朝
(稲田) (笠間)
宇都宮氏は下野国(栃木県)中部・南部の大豪族でした。そのなかで朝業の祖父宇都宮朝綱は源頼朝の鎌倉幕府創業に協力して功績をあげ、頼朝から「坂東一の弓取り」と褒めたたえられました。朝業誕生の年ははっきりしませんが、兄の頼綱が治承二年(一一七八)に生まれていますから、その後、つまりは祖父朝綱が幕府創業に活躍していたころの誕生でしょう。
➂ 朝業、塩谷氏に婿養子として入る
塩谷氏というのは、宇都宮氏の勢力圏の北に勢力を張っていた豪族です。現在の栃木県矢板市や塩谷郡塩谷町とその付近です(現代の「塩谷」は「しおや」と読みます)。塩谷氏第五代目の朝義には息子がいませんでした。それで朝綱の孫・成綱の息子竹千代を婿養子に迎えて家を継いでもらい、朝業と名のらせたのです。。
朝業は兄頼綱と終生仲がよく、本家の形となった宇都宮氏を盛り立てました。特に、元久二年(1205)以降は、宇都宮家を代表して鎌倉幕府に出仕しました。それはこの年の閏七月、頼綱は一族をあげて国境で接していた常陸国笠間郡に攻め込んで有利な戦いを進めていたとき、執権北条義時・政子と将軍実朝と、義時・政子の父時政と後妻の争いに巻き込まれ、出家引退に追い込まれたからです。本家つまり惣領は頼綱の息子が継ぐべきであったのでしょうが、なにせ頼綱は当時二十八歳、長男泰綱はいまだ数え三歳でした。そのために朝業が一時的に惣領を受け継いだのです。
北条時政――政子
└義時
└女子
┠―――泰綱
宇都宮頼綱
➃ 笠間郡(新治東郡)を占領
頼綱の出家引退によって一族全滅から免れた宇都宮氏は、朝業が指揮して瞬く間に笠間郡を占領しました。笠間郡は、本来、常陸国新治郡(にいはりぐん)と呼ばれていた地域の一部でした。東西に延びる新治郡は、東の部分・中央部分・西の部分が仮りに三分割されて、新治東郡(にいはりとうぐん)・新治中郡・新治西郡と呼ばれました。新治中郡だけは早い時期に荘園化されて中郡荘と呼ばれていました。
このうち、笠間郡と呼ばれるようになるのが新治東郡です。もっとも、「笠間郡」と呼ばれるようになったのは数十年後です。稲田に住んだ親鸞聖人が京都に帰ってからでしょう。少なくとも残る史料からはそのように推定されます(『笠間市史』)。
笠間郡の支配と運営は朝業が指揮して行われた気配です。その功績からでしょう、後に朝業が出家引退したとき、笠間郡は朝業の次男時朝に譲られました。この時朝が、すなわち、戦国時代末期まで続いた笠間氏十八代の初代ということになります。
ちなみに笠間侵攻のとき、宇都宮氏は時朝を総大将にして攻め込んできたという説があります。時朝はまだ幼時であったけれども、家来たちが盛り立ててやれば大丈夫、大将の役割は果たせるというのです。しかし時朝は元久元年(1204)生まれですから、このとき数え二歳です。侵略戦争にそんな乳幼児を大将に押し立てるのんきな状況などあるはずはないでしょう。
➄ 朝業、将軍源実朝に仕える
朝業は幕府第三代将軍源実朝と親しくなりました。朝業の役割は、義時・政子に睨まれて滅ぼされかかった宇都宮氏の立て直しにあります。朝業はそれを義時・政子が大切にした実朝に接近することで果たそうとしたようです。むろん、それは頼綱と相談の上であったはずです。出家引退したとはいえ、実質的な宇都宮の惣領は頼綱だったのです。
ところが当初の予想を超えて、実朝と朝業とはとても仲がよくなりました。実朝は武芸よりも和歌や芸能を好みました。実朝は弓矢や刀の能力で支配力を増すより、文化的な高さで権威を示して支配を進めるべきだ、武士の政権である幕府もそのように方向を変えていくべきだと考えていたのです。武による支配ではなく、文による支配です。これは日本のみならず世界の多くの新興政権が目指すところです。「文」のなかでも、当時、和歌は神・仏のお告げが込められていると考えられていました。為政者にとって、和歌は大切にすべきものでした。朝業も父成綱・兄頼綱ゆずりの優れた歌詠みでした。
➅ 実朝と朝業の和歌の贈答
建暦二年(1212)といえば、流罪で越後にいた親鸞聖人が赦免された翌年です。この年の2月1日、和田朝盛という武士が、鎌倉に滞在していた朝業のもとにふくよかに匂う梅一枝とともに、一首の和歌を届けてきました。
君ならで 誰にか見せむ わが宿の
軒端ににほふ 梅のはつ花
「あなた以外のいったい誰に見せましょうか、私の家の軒端で匂っている、
今年初めて咲いた梅の花を」
このような和歌でした。
これは実朝からの贈り物なのです。朝業はすぐに和歌を詠んでお礼を申し上げるべきでした。しかし配達役の和田朝盛は、実朝から「自分(実朝)からの贈り物だとは言うなよ。また、返歌(お返しの和歌)ももらってこないように」と命じられていました。そこで朝盛は、朝業から「誰からの贈り物ですか?」などと質問されないように、走って帰りました。
ところが朝業は勘よくそれと察し、次のような和歌を実朝に差し上げたのです。
うれしさも 匂いも袖に 余りけり
我為おれる 梅の初花
「私の着物の袖にあり余るほどのよい匂いとうれしさをいただきました。あなたが 私のために折って下さった、今年あなたの家で初めて咲いた梅の一枝から」
(『吾妻鏡』同日条)
実朝は当時二十一歳、朝業は三十五歳未満(兄頼綱が三十五歳)ですから、比較的年齢が近い、気の合った若い主従であったということでしょう。
ちなみに、実朝は京都の藤原定家に和歌の指導を受けていたことが知られています。そのための素地を作ったのは朝業ではなかったかとも推定されています。頼綱・朝業兄弟は定家と親しく、頼綱の娘は後に定家の息子為家の妻となったほどです。それもいきなり関東の豪族が京都の貴族と婚姻関係を結んだということではありません。初代頼綱の父成綱に至るまで四代の当主の妻は京都の貴族から迎えています。その交流の中での頼綱の娘の結婚です。
宇都宮宗円――宗綱――朝綱――成綱――頼綱
┠――泰綱
北条時政――女子 └女子
┃
藤原定家――為家
➆ 京都・鎌倉と近い稲田
稲田は宇都宮一族の領地です。宇都宮一族は京都・鎌倉に大きな勢力を持っていた氏族でした。したがってその気になれば、稲田は京都・鎌倉の情報を多く、そして早く得られる地域だったのです。
参考:拙著『親鸞をめぐる人びと』「塩谷朝業」の項(自照社出版、2012年)、
拙著『下野と親鸞』(自照社出版、2012年)