皆様、新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
私は昨年10月に4週間近く、エジプトのカイロ大学文学部へ赴任しました。エジプトに赴任するのは5回目でした。今までは同じカイロの中でもアインシャムス大学外国語学部日本語学科という所でしたが、今回はカイロ大学日本語日本文学科でした。
その日本語日本文学科で学部生に日本文学史の講義をし、大学院生や助手に論文執筆指導をしました。毎日のように個人指導も行ないました。また前回までのアインシャムスの院生・助手たちも噂を聞いて駆けつけて来てくれました。うれしかったです。
他方では、エジプトの社会不安の中での教育について、日本としてはどのような協力ができるか考え続けた4週間近くでした。
今回の赴任の成果をもとにして、『日本研究の修士論文と博士論文の書き方―文学を中心に―』という拙著をエジプトで刊行することになりました。アラビア語との対訳本です。
私のアラビア語との対訳本は2冊目です。前著は『日本語と日本人のこころ』という書名でした。今回と同じく、国際交流基金カイロ日本文化センターの刊行です。
実をいえば私はロシア語との対訳の『現代日本の文化と社会』という本も出版したことがあります。こちらはウズベキスタンのタシケント国立東洋学大学日本語講座・筑波大学中央アジア国際連携センターで、国際交流基金の出版助成のもとに刊行したものです。
【2014年11月12月の活動】
著書の出版:ここでは、私の昨年(2014年)11月・12月の著書などについて記します。
~本連載第12回に掲載していなかった9月・10月のものは、ここに載せました~
《著書》
➀『日本人のこころの言葉 一遍』創元社、2014年10月20日
一遍は踊り念仏で知られています。また衣食住すべてを捨てて念仏のみに生きようとして、捨て聖と呼ばれた僧でもあります。法然門弟で浄土宗西山派の祖として知られる善恵房証空の孫弟子に当たります。その一遍の言葉を分かりやすく解説したものです。
法然―証空―聖達―一遍
└親鸞
➁『親鸞と歎異抄』歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2014年12月20日
『歎異抄』は親鸞の言葉を門弟の唯円が筆記したものと考えられています。本書は、全体を現代語訳し、さらに特に歴史的面から解説を加えました。また『歎異抄』後半は
唯円の思想も示されている気配ですので、唯円の生き方にも注目しました。
《論考》
➀「親鸞の関東伝道」
『中外日報』2014年9月12日号
親鸞が関東に入ったのは建保2年のことですから、今年はそれから満800年に当たります。そのことを記念して、『中外日報』の「随想随筆」欄に4回にわたって連載をしました。今回はその第1回です。従来の、親鸞は食うや食わずの聖で放浪者のように関東にたどり着いた、という説はもはや誤りというしかないというのが本稿の主旨です。
➁「親鸞の門弟」
『中外日報』2014年9月19日号
親鸞の門弟は、かつて説かれたような農民ではなく、その多くは武士である、史料を検討する限りそのような結論になる、というのが本稿の主旨です。
➂「親鸞の念仏」
『中外日報』2014年9月26日号
関東の人びとは、親鸞の念仏の背景に信心と報謝が強調されているからこそ、その念仏に魅力を感じた、というのが本稿の主旨です。
➃「越後から関東へ」(連載「関東の親鸞聖人」➀)
『築地本願寺新報』2014年10月
親鸞が越後から関東へ移ってきた状況について述べました。
➄「親鸞の「救い」」
『中外日報』2014年10月3日号
悪人正機説は、まったく新しい思想だから魅力的だったのではなく、それを受け入れる背景が社会にあったからこそ説得力を持った、というのが本稿の主旨です。
➅「各地への伝道」(連載「関東の親鸞聖人」➁)
『築地本願寺新報』2014年11月号
親鸞の関東各地への伝道について述べました。
➆「人の能力に注目する時代」(連載「悪人正機の顔」第1回)
『自照同人』第85号(2014年11・12月号)
本稿の最初に、「鎌倉時代に制作された親鸞とその門下の彫像を見ていくと、顔がとても険しい表情をしていることに気がつきます。これはなぜだろう。彼らは阿弥陀仏の本願によって、また悪人正機の慈悲によって救われたのではなかったか。それなら穏やかな表情をしていてもよさそうなのに、なぜこのような険しい顔をしているのだろう。これは悪人正機を意識した彫像だからではないだろうか。悪を消したのではなく、悪とともに生きる決心をした顔ではないのか。本連載では、以上の発想のもとに、彫像の表情を手がかりにして鎌倉時代の人たちの心情と救済の世界を考えていきたいと思います」と連載の主旨を述べました。
第1回は、平安時代末期から鎌倉時代は人の能力に特に注目する時代であった、ということを説きました。
➇「北の郡の善乗房と山伏弁円」(連載「関東の親鸞聖人」➂)
『築地本願寺新報』2014年12月号
親鸞の布教活動の妨げとなった善乗房と山伏弁円について述べました。
➈「人の師」
『在家仏教』2014年12月号
親鸞には、法然に導かれた時の喜びが人を導くときの根底にあるのだろう、ということを述べました。それは人の師たるもの、常に留意すべきことであると思います。
【連載・親鸞聖人と稲田(13)】
―宇都宮頼綱と北条泰時―
➀ 『教行信証』後鳥羽上皇批判の記事
この連載の前回で、『教行信証』には親鸞を流罪にした権力者後鳥羽上皇を、全面的に否定しているかにみえる記事があるけれども、それは後鳥羽上皇が処罰の正しい手続きを踏まなかったことを非難しているに過ぎないと読むべきだ、ということを述べました。この記事をもって「権力者と戦う親鸞」像を作ることは誤り、ということです。
➁ 後鳥羽上皇の佐渡ヶ島配流
後鳥羽上皇は承久の乱(1221)で幕府方に敗れ、佐渡ヶ島に流されました。流したのは鎌倉幕府の執権北条義時です。当時の常識からいえば、臣下が上皇を流すなどというのは前代未聞に近いできごとです。しかし義時は断固としてその方針を貫きました。義時は3年後の元仁元年(1224)に亡くなるのですけれども、あとを継いだ泰時もその方針を受け継ぎました。
流罪というのは、4,5年経つと赦免して京都へ呼び返し、もとの地位に戻すというのが暗黙の了解事項でした。貴族たちはしきりに幕府に後鳥羽上皇の赦免を願い出ました。泰時は個人的な性格、さらには彼が置かれた状況もあって、政治は協調主義で行なっていました。しかし後鳥羽上皇だけは許しませんでした。上皇は17年も佐渡ヶ島で暮らし、その地で亡くなってしまいました。
親鸞が『教行信証』を著わしたのは元仁元年のことでした。稲田にいる親鸞にも、幕府の後鳥羽上皇に対する断固たる処断は伝わっていたはずです。親鸞が上皇批判の文章を記入したのは、このような政治的雰囲気も背景にあったろうと私は考えています。それは稲田が宇都宮頼綱の支配下にあったことが大いに影響があるでしょう。
➂ 北条泰時の義理の叔父宇都宮頼綱
宇都宮頼綱は、以前に述べましたように、法然の最晩年の門弟で実信房蓮生という法名を与えられていました。法然没後は、法然の門弟である善恵房証空の指導を受けていました。証空は浄土宗西山派の派祖とされる人物です。頼綱は親鸞を稲田に招いたと推定される人物でもあります。そして頼綱は北条泰時と非常に親しかったのです。
宇都宮頼綱の正妻は、北条義時の妹(下記系図の➀の女性)です。すなわち、泰時の叔母です。そこに生まれた頼綱の嫡子泰綱は、泰時の従兄弟ということになります。泰時は1183年生まれ、泰綱は1202生まれですから、年齢差は19年あります。
┌北条義時――泰時
| └朝時―女子➂
├――時房――女子➁ |――景綱
└――女子➀ │┌――┘
├――泰綱
宇都宮頼綱
➃ 泰時と頼綱の婚姻関係
泰時は、一族の中でもっとも頼りにしていた叔父時房の娘(系図の➁の女性)を泰綱と結婚させました。そこには子どもが生まれませんでした。泰時はさらに自分の弟の朝時の娘(系図の➂の女性)と結婚させました。ここに1235年に生まれた男子が、泰綱の嫡子景綱です。
┌時頼―――時宗
┌泰時――時氏――経時
│ └時実 |
└朝時――女子③ |
├――女子④
|└景綱
頼綱――泰綱
ところで、泰綱と朝時の娘との間には、1224年ころに生まれた女子がいました(系図の➃の女性。1231年誕生という説もあります)。彼女は3歳の1226年、同い年の北条経時と婚約しました。経時は時氏の長男ですが、この婚約は泰時の計らいでした。
このように見てくると、1227年のころ、宇都宮頼綱は北条泰時に非常に信頼されていたことが分かります。しかも順調ならば頼綱の曾孫が執権職に就任し、宇都宮系の幕府が誕生していた可能性もあったのです。
➄ 泰時の息子たちと孫たち
泰時には男子がもう一人いました。時実です。彼は次男ですが、当腹の嫡子でしたので、泰時の跡継ぎの立場でした。武士の慣行では、正妻の息子(多くは長男)が後継者の権利を有していました。これを当腹の嫡子といいます。そのころ「当」は「現在」という意味でしたから、「当腹の嫡子」とは「現在の正妻の腹から生まれた息子で、夫の後継者になる権利を持っている者」ということになります。
しかし時実は1227年に家臣と争って切り殺されてしまいます。まだ16歳でした。でも、この事件によって泰時のあとは時氏が継ぐことが確実視されたはずです。ただ時氏は泰時に先だって亡くなってしまいましたので、執権に就任することはありませんでした。時氏の嫡男が経時ですから、後に泰時のあとに執権職を継ぎました。しかし経時も早死にし、弟の時頼があとを継ぎました。
➅ 不安定な立場の北条泰時
北条氏の中における泰時の立場は、必ずしも安泰ではありませんでした。1224年に父義時が亡くなった時、後継者の立場にいたのは弟の政村でした。それは母の伊賀局が義時の正妻だったからです。義時が亡くなった時、泰時は42歳になっていましたが、当腹の嫡子ではありませんでした。
┌北条政子
└ 義時―┬―泰時(42歳)
└―朝時(32歳)
└―政村(20歳)
泰時は父に信頼され期待されていましたが、不思議なことに、母が誰であったかまったく分かっていません。義時の最初の当腹の嫡子は、泰時誕生後に結婚した妻(名前は「姫の前」)から生まれた朝時でした。
しかし朝時の母の実家比企氏は、北条氏と戦って滅びました。姫の前も結婚生活を続けることができず、離婚して京都に去りました。
義時はその後伊賀氏の娘(名前は「伊賀局」)と結婚しました。そこには男子が生まれ、その子が当腹の嫡子となりました。朝村です。彼は義時が亡くなった時、20歳になっていました。でも鎌倉幕府を必死に維持しようとする伯母の北条政子は、すでに政治的・軍事的に百戦錬磨になっていた泰時を後継者に選びました。経験の浅い政村では幕府の指導者になるのは無理だろうと判断したのです。他の豪族も交えた暗闘の末、当腹の嫡子政村を抑えて、泰時が執権職に就きました。
朝時も政村もそのまま据え置かれましたが、政村を執権にするべく努力した伯父の伊賀光宗は信濃国に流されてしまいました。
➆ 頼綱の弟塩谷朝業
翌年の1225年、北条政子はある信頼できる僧に伊賀光宗の様子を見に行ってもらいました。泰時に反抗する気配がないなら、鎌倉に戻してもとのように幕府政治に参加させようとの意図がありました。何といっても、執権職に就任する権利があったのは政村です。それを押し退けて泰時を執権にしてしまったのです。政子は早く仲直りしたかったのです。
政子にとって幸いなことに、光宗は泰時に忠誠を誓いました。その報告を政子にもたらした僧は、法名を信生、俗名を塩谷朝業といいました。宇都宮頼綱の弟です。頼綱は朝業と二人三脚で宇都宮氏の発展に努力していました。朝業は鎌倉幕府第3代将軍実朝に仕え、その厚い信頼を得ていました。承久元年(1219)に実朝が暗殺された時、朝業はその死を悲しんで出家しました。その後、兄の師匠の証空の門に入りました。また法然没後の門弟という意識も強く持っていたようです。
朝業の出家に当たり、稲田を含む常陸国笠間郡は朝業の次男時朝に与えられました。すなわち笠間時朝です。
┌宇都宮頼綱
├ 塩谷朝業――笠間時朝
└ 稲田頼重
政子と泰時はまもなく伊賀光宗を鎌倉に呼び戻し、幕府政治に復帰させています。また朝時はずっと泰時に従順でしたが、朝時の数人いる男子は自分たちの家(名越家といいます)こそ北条氏の正統という意識をずっと持ち続けました。彼らは泰時の系統(得宗家といいます)に反抗し続け、何人も殺され、また流されています。
泰時は政治的にも、一族の中でも不安定な立場にいました。その時に強く頼りにしたのが伯母の政子であり、義理の叔父の宇都宮頼綱だったのです。泰時の考え、さらには幕府の方針は速やかに頼綱の領内に伝わっていたはずです。後鳥羽上皇に対する方針も、親鸞は容易に知り得ていたのです。
➇ 北条政子の年期法要
北条政子は嘉禄元年(1225)に亡くなりました。泰時はその葬送の法要、続いて翌年の一周忌、二年後の三回忌の法要を盛大に行ないました。政子の権威は絶大でしたから、その法要といえば誰も逆らえません。皆、参列します。法要を主催する泰時の立場は強化されるというものです。政子の法要には、そのような政治的意図があったのです。
三回忌後、次の七回忌まではかなりの時間があります。そこで泰時が計画したのが一切経の奉納でした。嘉禄3年(1227)から翌年にかけてその動きが具体化しました。
➈ 一切経校合事業
一切経とは「経典すべて」という意味です。一切経という経典があるのではありません。経典は全部で2万巻以上あるといわれていますが、一切経奉納といえば実際には5千数百巻が奉納されるのが普通でした。奉納の目的は主に亡くなった人の追善供養でした。
一切経を整え、新たに書写して奉納すればさらに功徳があると考えられていたようです。でも経典類は書写で伝えられていましたから、誤写もありました。そこで同じ経典を何点も集めて間違いを正さなければなりません。それを校合といいます。それは大変なことでした。まず、多数の経典に精通し、どれが正しいか判断する識見を持った僧が必要です。また年単位の期間が必要です。
➉ 『口伝鈔』の記事
政子追善供養の一切経校合と書写・奉納は、泰時にとっては国家的事業です。それを続ける限り、泰時の立場は強化され続けます。期間は長い方がいいのです。では一切経校合をどの僧に任せたらいいか。泰時は必ずや頼綱にも相談をもちかけただろうと思うのです。そこに『教行信証』を執筆して間もない親鸞が浮かび上がって来たのでしょう。この書物を執筆する過程で、親鸞が多数の経典類を参照したことは明らかです。その実績の上に立って、頼綱は親鸞を泰時に推薦したのだろう、それが覚如の『口伝抄』に出る一切経校合の記事になったのだろうと私は推定しています。