私は10月8日から10月31日まで、エジプトのカイロ大学文学部日本文学科に赴任します。この原稿は赴任の前に書いています。
カイロ大学日本文学科は、本年、創立40周年を迎えます。40周年とはすごいものです。今まで、文学科を支えてこられた方々に心から敬意を表したいと思います。
私は4年生の「日本古代・中世文学」と、大学院のゼミ2クラスを担当します。ゼミでは文学に関する論文の書き方を指導します。どのようにして論文のテーマを選べばよいか。論文はどのような構成(目次)にすればよいか。どのようにすればよい文章が書けるか。これらの指導です。なにせ院生は日本語で論文を書かなければなりません。
担当授業の数は3本ですけれど、講義の授業は1回につき120分、ゼミは180分ですので、なかなかのものです。でも、日本の大学の授業とは異なった工夫ができます。今回の赴任も楽しみにしています。また、授業だけでは不足ですので、希望者には個別指導をします。この個別指導は、私は海外の大学に行くと必ず行ないます。
エジプト赴任は2010年の第一回赴任から数えて5回目になります。待っていてくれる院生・学生も多いので、彼らに再会できるのも楽しみです。
【2014年9月10月の活動】
著書の出版
ここでは、私の本年9月・10月の出版などについて記します。
《著書》
➀「関東の親鸞シリーズ」⑪『五十六歳の親鸞・続々―一切経校合―』
覚如の『口伝抄』に、鎌倉幕府の執権北条泰時(または泰時の息子の時氏)の要請に応じて一切経校合を行なったという話が載せられています。従来、庶民の味方親鸞聖人が幕府の権力者に協力をしたはずはない、この話は覚如の創作だろうという説が有力でした。
しかし第二次大戦後しばらくの間の、権力者の圧政にしいたげられた庶民が雄々しくも立ち上がって戦う、という歴史観が有力であった時代は去りました。保守対革新の戦いという図式、そして後者が前者を圧倒していくんだという図式も過去のものとなりました。一切経校合の話も従来の説は見直していかなければなりません。本書は、北条氏の側から、北条氏の事情を検討することによって「親鸞聖人の一切経校合」を浮かび上がらせようという試みです。
《論考》
➀「恵信尼は親鸞の良き相談相手」
『さっぽろ東本願寺』No.176(2014年9月号)
本稿は、本年7月1日と同2日に、真宗大谷派札幌別院でそれぞれ「親鸞聖人と関東に向かった恵信尼さま」「親鸞聖人の関東での布教」と題して行なった暁天講座の要旨をまとめたものです。
➁「専修寺の説法印の阿弥陀如来立像」
『親鸞の水脈』第16号
栃木県真岡市高田の真宗高田派本寺専修寺の対面所に安置されている説法印の阿弥陀如来立像について検討しました。同像は像高137センチ、鎌倉時代末期の13世紀末から14世紀初めの造立と推定されています。
➂「信蓮房と山寺薬師」(親鸞の家族ゆかりの寺々 最終回)
『自照同人』第84号(2014年9・10月号)
信蓮房は親鸞聖人の息子です。親鸞聖人が越後から関東へ移住してきた時、まだ4歳でした(数え年)。成人してからまた越後に戻りました。その信蓮房は、出家して現在の上越市板倉区東山寺の山寺薬師で修行したという説があります。本稿ではそれらのことについて述べました。
【連載・親鸞聖人と稲田(12)】
―『教行信証』と参考文献、および越後流罪の記事―
➀ 『教行信証』と鹿島神宮
前回には親鸞聖人の主著である『教行信証』の執筆について取り上げました。『教行信証』は稲田草庵で書かれたであろうこと、おもな参考文献の求め先は鹿島神宮ではないであろうこと、それは稲田神社ではなかったかということ、その他いくつかのことを述べました。
私たちは、親鸞聖人は参考文献を鹿島神宮に求めたと教えられてきました。しかし江戸時代の記録には、親鸞聖人が初めて鹿島神宮に参詣したのは53歳の時であると書かれています。聖人が『教行信証』を書いたのは52歳ですから、鹿島神宮で参考文献を求めたという説は根本からひっくり返ることになります。この記事を発見した時、私はとても衝撃を受けました。いったい誰が「親鸞聖人は『教行信証』の参考文献を求めるために鹿島神宮に通われた」などといい始めたのでしょうか。
➁ 『教行信証』と鹿島の神宮寺
現在の鹿島神宮へ行くと、神宮寺跡と称する所があります。神宮寺とは、ある神社の境内にあって、その神社を守る役割をする寺院です。各地の大きな神社には、よく神宮寺が建てられています。
ここは寺院なので、当然、仏教書がたくさんあるだろう。いってみれば親鸞聖人はその神宮寺で必要な仏教書を探されたに違いない。このように考えられてきました。
➂ 神仏分離が与えた影響
この話には根本的な勘違い、強くいえば誤りがあります。寺院と神社、仏教と神道が切り離されたのは明治維新の折りの神仏分離・廃仏毀釈からです。それ以前は融合していたのです。これも強くいえば一体だったのです。それに神社の構成員の多くは僧侶でした。仏教書はなにも神宮寺だけに限って所蔵されていたのではないのです。神社のどこにでもあったのです。神官にとって仏教書は邪魔でもなんでもなかったのです。広い鹿島神宮の、さまざまな建物の中に仏教書は存在していたのです。
戦国時代までのように仏教勢力が圧倒的に強い時代には、神道の独自性を主張する動きはあまり見られませんでした。それが仏教が政治的に格段に弱くなった江戸時代を経て、明治時代に入って神道側の不満が爆発しました。明治政府が神道を保護する動きに出たからです。神仏分離から廃仏毀釈の攻撃がそれです。この時には全国の寺院から仏像・仏具が大量に失われました。
➃ いまだ戻らない常識
神仏分離の動きが後世に与えた影響は計り知れません。大量の仏像・仏具が失われたのみならず、私たちの常識も変更されてしまいました。神仏分離の時期からもう 140年も経つのに、常識はもとに戻っていません。その常識とは「神社に仏像や仏教書があってもおかしくない」という常識です。
➄ 『教行信証』に見る越後流罪に関する常識
さて常識といえば、『教行信証』の越後流罪をめぐって、従来、次のような常識がありました。それは後鳥羽上皇をはじめとする朝廷と延暦寺や興福寺等の仏教教団勢力が手を組んで、法然聖人の専修念仏勢力を弾圧したという常識です。それは専修念仏が国家体制を壊そうしていたからだ、国家に反逆を企てていたからだ、ということでした。この常識によって、親鸞聖人は国家権力と戦う人だったとされてきました。その最大の、そして唯一の根拠が『教行信証』化身土巻の次の記事でした。引用文には、便宜上、少しずつ分けてA~Eの記号をつけました。
➅ 『教行信証』化身土巻の記事
(A)洛都の儒林、行に迷ふて邪正の道路をわきまふることなし。(B)ここを以て興福寺の学徒、太上天皇【後鳥羽の院と号す】〈諱尊成〉、今上【土御門の院と号す】〈諱為仁〉聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。(C)主上臣下、法に背き義に違し、忿をなし怨を結ぶ。(D)これに因りて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、みだりがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜ふて遠流に処す。(E)予はその一なり。
(もとは漢文です。)
京都大学名誉教授で鎌倉時代研究の第一人者である上横手雅敬氏は、この文章は次のような意味であると主張されます(「建永の法難について」『鎌倉時代の権力と制度』思文閣出版、2008年)。歴史学者の間では、浄土真宗でいうところの「承元の法難」を「建永の法難」と称することが多いです。
(以下の現代語訳は本稿の筆者〈今井〉が行ないました。)
(A)京都の儒学者たちは進むべき方向に迷い、正しいことと悪いことの判断がつかないでいました。(B)このような状況の中で、興福寺の学僧たちは後鳥羽上皇(お名前は尊成)とその時の天皇である土御門天皇(お名前は為仁)に対し、承元元年(1207)2月上旬、専修念仏者たちを断罪してくれるように申し上げました。(C)後鳥羽上皇とその下にいる貴族たちは、法で定められたような処断の手続きを取らず、正しい政治に背いた行動を取りました。彼らは何かを恨みがましく思い、怒っていました。その感情のままに処断したのです。(D)このようなことで浄土真宗を興した大功労者の法然聖人とその門下数人を、正しく裁判をせず、上皇は勝手に死刑にしてしまいました。また何人かは僧侶の身分を取り上げて還俗させ、俗人としての姓名をつけて流罪にしてしまいました。(E)私親鸞はその一人です。
➆ 親鸞聖人は何を問題にしているのか
―「洛都の儒林」がなぜ『教行信証』に出てくるのか―
いったい親鸞聖人はこの化身土巻の文章で、何を問題にしているのでしょうか。後鳥羽上皇を非難していることは間違いありません。でも朝廷で院政を主導している実力者後鳥羽上皇は国家権力の権化だ、倒せ、などと声高に叫んでいるのではありません。最初に(A)の「洛都の儒林」を非難していることに注目しなければなりません。
「洛都の儒林」とは、朝廷に仕えている京都の儒学者という意味です。さらに詳しく説明しますと朝廷の裁判に関わる仕事をしている儒学者のことです。
➇ 裁判の仕組み
朝廷で、犯罪の被疑者を捕えた場合、審議してどのような刑罰が適当か決定します。今日風にいえば裁判を行ないます。刑罰は5種類あります。一口に笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)といいます。「笞」は背中を棒で50回叩く刑罰です。いわゆる笞(むち)で叩くのではありません。「杖」は同じく棒で背中を百回叩く刑罰です。叩かれた人は血だらけで半死半生になったそうです。「徒」は懲役刑、「流」は流刑、「死」は死刑です。
被疑者についての裁判の過程で、真っ先に仕事をしなければならないのが儒学者たちです。その係りの儒学者たちが集まり、担当の公卿(くぎょう)の諮問に応じて話し合います。この被疑者は「杖」が適当、こちらは「流」が適当と答申をするのです。その上で公卿たちの会議で決定されるのです。
公卿というのは、多数いる貴族の中の最上層の人びとです。職でいえば、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議の人びとです。大納言以下は複数いますので、いつもだいたい十数人です。現代の内閣の大臣とほぼ同じ人数です。天皇または上皇が強力な場合は、むろんその意思が尊重されます。
「流罪」と答申する場合、流刑地まで決定して答申したのではありません。どこに流すかは公卿の会議で決定されます。そして興味深いのは、答申から決定までの間にはかなりの日数があることです。つまり、今日風に言えば、かなりの情実が入る余地があるということですね。そしてそれは非難されませんでした。
➈ 親鸞聖人は何を問題にしているのか
―「洛都の儒林」は役割を果たしていない―
ところが儒学者たちは行なうべき役割を果たしていなかった、と親鸞聖人は問題にしているのです。法然聖人・親鸞聖人以下が朝廷の名のもとに処罰されたことについて、儒学者たちは答申をしていなかったのです。それは大変な職務怠慢だろう、と親鸞聖人は非難しています。それが(A)の「行に迷ふて邪正の道路をわきまふることなし」という文章の意味です。
➉ 親鸞聖人は何を問題にしているのか
―後鳥羽上皇の手続き無視を非難―
むろん、儒学者たちが勝手に答申を行なわないなどということはあり得ません。それは後鳥羽上皇がその答申をさせなかった、つまりは諮問をしなかったことがそもそもの問題だったのです。後鳥羽上皇の怨みと怒りが激しくて、裁判の正しい手続きを無視し、法然聖人・親鸞聖人以下を上皇が勝手に有罪と決めつけてしまったのです。それが(C)の「主上臣下、法に背き義に違し、忿をなし怨みを結ぶ」という文章の意味です。後鳥羽上皇が何を怨み怒ったかといえば、それは自分が紀伊国(和歌山県)の熊野神社に参詣している間に、愛人たちが専修念仏の会に参加し、上皇に無断で出家してしまったということです。上皇は愛人たちに捨てられたのです。上皇はそれを「忿」り「怨」んだのです。彼はまだ情熱あふれる28歳の若者でした。
後鳥羽上皇が「法に背」いたのは、自らの愛人問題が原因でした。その上皇の意思を止められなかった「臣下」の貴族たちをも、親鸞は問題にしているのです。
⑪ 「愛人問題で越後に流された」のは嫌だ?
私は、「親鸞聖人が愛人問題などという次元の低い理由で越後流罪になったなんて嫌だなあ」という感想を何度か聞いたことがあります。「国家の弾圧」の方が気分いい、親鸞聖人はそれほど重要な人物だったんだ、と思いたいということでしょう。どのように思おうと自由でありますけれども、『教行信証』は「専修念仏者への国家の弾圧、後鳥羽を倒せ」という視点で書かれているのではなく、「裁判手続きの誤り」という視点で書かれているのです。
⑫ 専制的権力をもった上皇たち
平安時代から鎌倉時代にかけて、院政を行なっていた上皇たちは非常に強い政治的権力を握っていました。それは白河上皇に始まり、鳥羽上皇・後白河上皇・後鳥羽上皇と続く4代の上皇たちです。彼らは強力な指導力を発揮して朝廷の中では貴族勢力を圧倒し、武家勢力に対しては貴族を守りました。また仏教勢力に対しては信仰面の拠りどころを求めつつも、統制下に置く努力を続けました。上皇たちは、個人的な、あるいは公けのさまざまな理由で仏教勢力に干渉しました。専修念仏者だけが被害に遭ったのではありません。私たちは周囲の状況も見るべきです。
⑬ 『教行信証』が書かれた場所と時期
『教行信証』は関東で書かれました。それは親鸞聖人52歳の時です。後鳥羽上皇が承久の乱で幕府軍に敗れて隠岐の島に流されたのはその3年前です。帰洛をもとめる朝廷の願いを、幕府は絶対に認めませんでした。『教行信証』は幕府のお膝元の関東で執筆されています。親鸞聖人を保護してくれている宇都宮頼綱は幕府の有力者です。彼は変わらず専修念仏たちの味方です。法然聖人没後の最大の法難である嘉禄の法難はこれから3年後ですが、その時頼綱は数百人の騎馬軍団を率いて法然の遺骸を守りました(『拾遺古徳伝絵』)。
『教行信証』がこのような場所と時期に書かれたことを、越後流罪に関する記述を検討する上で念頭に置くべきだろうと私は考えています。