今年も関東では立春過ぎから大雪が降ったり、不安定な天気の日が多くなりました。本格的な春が近づいてきた証拠でしょう。テレビでは北海道の流氷を見るツアーを映していました。これまた春を知らせる風物詩です。昨年網走に講演に行きました時、さる博物館で流氷付近の気温を体験する部屋がありました。お湯で絞ったタオルを振り回すと、たちまち氷の棒になりました。
【2014年1月・2月の活動】
著書の出版
ここでは、私の本年1月・2月の出版などについて記します。
《著書》
➀『親鸞の伝承と史実―関東に伝わる聖人像―』(法蔵館)
本書は、史実と伝承をはっきりと分け、その上であらためて総合的に構成するという試みです。常陸国を中心にした歴史的舞台を史料をもとに厳密に検証しつつ、その舞台で成立した親鸞聖人に関わる伝承およびその性格や意味を検討しました。「史実」には地理的状況も十分に考慮しました。私は以前からこのような本を作りたいと考えてきました。
《論考》
訂正とお詫び 前回、『学びの友』42巻3号(2013年11月号)掲載「親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第3回 真仏とお田植えの歌」、および『学びの友』42巻4号(2013年12月号)「親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第4回 入信と筑波権現」掲載として記しましたのは、3号分が5号に掲載すべき記事、4号分が6号に掲載すべき記事の誤りでした。訂正してお詫びします。それで、ここではあらためて3号分と4号の記事を掲載します。
➀「唯円とその妻」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第3回)
『学びの友』42巻3号(2013年11月号)
唯円は「歎異抄」の著者として知られる河和田の唯円です。粗暴で後に親鸞に帰依したとされる唯円のエピソードに、妻の役割を強調すべきでないかということを提案しました。
➁「突飛にあずかった信楽」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第4回)
『学びの友』42巻4号(2013年12月号)
親鸞聖人に叱られ、京都から故郷に帰った門弟の信楽。後に聖人の曾孫覚如に出会い、再び門弟として認めてもらいます。そのことの意味を考えました。
➂「善明と阿弥陀寺」(親鸞の家族ゆかりの寺々 第12回)
『自照同人』第80号(2014年1・2月号)
阿弥陀寺は茨城県那珂市額田南郷にあります。善明(ぜんみょう)は如信の弟すなわち善鸞の息子という説もある人物です。善明が実在の人物であったことは確実で、主に常陸国大山を中心にした地域で盛んに活動しました。
《講演録》
➀「親鸞聖人と山伏弁円」
『南御堂』第619号(真宗大谷派難波別院、2014年1月1日発行)
2013年12月10日に大阪・難波別院の暁天講座で行なった講演の記録です。山伏弁円は親鸞聖人の教えを前もって知っており、導いてくれると感じて聖人を訪ねた、としました。弁円の人間像の再検討です。
➁「親鸞聖人の家族と絆」
『中央仏教学院報』第24号(中央仏教学院、2014年1月1日発行)
2013年8月4日に中央仏教学院主催の第26回真宗講座で行なった講演の記録です(会場・京都新聞社)。親鸞聖人の和讃をもとに、東日本大震災や善鸞に関わって家族の絆について考えました。
【連載・親鸞聖人と稲田⑻】
―見返り橋―
➀ 西念寺の境内から西門を出ると、目の前に広がる田の中を細い道が真っ直ぐに西へ向かっています。左側の田を越えると国道50号が走っています。右側の田の先の方には小高い山が広がります。その先は栃木県の方に続きます。
目の前の真っ直ぐな道は、しかしその先にある建物でふさがれ、現在ではその先に行けません。そしてこの道の途中に、浄土真宗ではよく知られた見かえり橋があります。六十歳のころの親鸞聖人が京都へ帰る決心をし、稲田草庵の南門(現在の西門あたり)を出てしばらく進み、小川の橋の上で思わず振り返り(見かえり)、南門の所に立って見送っている家族と遠く声をかけあったという逸話のある橋です。
現在、細い道の脇に石の橋があり、その脇に記念の石碑が建っています。石碑は二基あります。一つには正面に「聖人みかへりはし」と彫られています。もう一つには正面に親鸞聖人作という和歌が彫られています。
➁ 二つ目の石碑に彫られている文面は次のとおりです。
わかれしを
さのみなげくな法(のり)のとも
親鸞聖人みかえりはし
またあう国の
ありと思えは
和歌そのものは1・2・4・5行目です。3行目の「親鸞聖人みかえりはし(見かえり橋)」は橋の名称を彫ったものです。平仮名に濁点を打っていないのは昔風ですが、しかし他の平仮名は現代の仮名遣いで書いてあります。昔風(歴史的仮名遣い)なら、「わかれしを」は「わかれち(別れ路)を」、「みかえりはし」は「みかへりはし」、「またあう」は「またあふ」、「思えは」は「思へは」とあるべきです。しかそんなことは承知の上で、現代人に読みやすいように現代仮名遣いで彫り込んだのだと思われます。和歌の意味は次のようになるでしょう。
私たちが進む人生の道がここで別れることを、そのように嘆かないでおくれ。私たちは同じ念仏に生きる仲間だよ。また極楽浄土で会えるじゃないか。
まあそうは言っても、親鸞聖人自身が惜別の思いに耐えきれず、橋の上で振り向いたとい
うことになります。
➂ 移動する見返り橋
以前には西念寺の南側にある黒門の前から、なだらかにカーブする道が田の中にのびていて、その途中に見返り橋がありました。その見返り橋は御影石が数枚並べられた横幅1,5メートルほどの橋でした。橋の両脇には同じ御影石の高さ15センチほどの欄干がついていました。
その後、田の区画整理があり、道は真っ直ぐになりました。小川の位置も10メートルほど西へ移動して橋はなくなりました。真っ直ぐになった道には、昔の橋の欄干を利用した、横幅50センチほどの見返り橋のモニュメントが作られました。そして数年前、上記のモニュメントに代わって現在の物が作られて現在に立っています。
西念寺蔵の古地図には、見かえり橋はもっと東の方にあるように描いてあります。
すなわち、見返り橋の話が成立した時期は不明ながら、橋は何度かにわたって移動したということになります。
④ 親鸞聖人はなぜ見返り橋を渡ったのか?
思わせぶりな言い方をしましたが、これは60歳のころの親鸞聖人はなぜ帰京したのか、という意味です。特に第二次大戦後において、三つの説が大きく取り上げられました。第一の説は、関東における鎌倉幕府の念仏弾圧を逃れて、という説でした。
しかし幕府もそして朝廷も、念仏そのものはまったく否定していなかったのです。そんなことをしたら関係者は地獄に堕ちる恐怖にさらされて生きなければなりませんから。そうではなくて、宴会をして暴れたり、異性関係で風紀を乱したり、社会体制を壊しがちな念仏者が取り締まられたのです。これは治安問題で、取締りの対象はひとり念仏者だけではありません。
念仏者についていえば、文暦二年(1235)親鸞聖人63歳の時、鎌倉幕府は「念仏者の事」として、次のような法令を出しています。
道心堅固においては異儀に及ばず。しかしながら、或いは魚鳥を喰らい、女
人を招き寄せ、或いは党類を結び、酒宴をほしいままに好むの由、ひとえに
聞こえあり。(中略)その身に至りては鎌倉中を追却せらるべきなり。
「しっかり修行しようという心を持っている念仏者はまったく問題はない。
しかし、魚・鳥を食い荒し、遊びのための女性を呼び寄せ、仲間を集め、酒
飲みの会をしきりに開いている念仏者がいるといくつも情報が入ってくる。
(中略)そのような者たちは鎌倉から追い出しなさい」。
どこにも念仏は禁止するなどと書いてはないではありませんか。これが幕府そして朝廷の普通の方針です。
それに鎌倉幕府は全国的な警察権を持っているわけではありませんから、むやみに領主たちの所領に踏み込むことはできません。片仮名でイエ(家)と表記しますが、領主の屋敷地に犯罪人が匿われていると分かっていても、幕府や朝廷は強引な引き渡し要求はできませんでした。拒否されればそれで終わりでした。
鎌倉幕府が一声「念仏者を禁圧する」といえば、たちまち幕府の役人が関東全域で念仏者を逮捕する、という社会ではないのです。私たちは勘違いしてはなりません。それに、仮りに幕府の念仏弾圧を恐れて京都に逃げ帰るのでしたら、残された門弟たちはどうなるのでしょうか。親鸞が一人安全ならいいのでしょうか。そんなことはあり得ないでしょう。私は、自分が学生のころに広まっていたこの説について、その時から何かおかしいと思っていました。
⑤ 親鸞聖人はなぜ見返り橋を渡ったのか?〈続〉
第二の説として、親鸞聖人は京都へ帰って師匠法然の書状や筆跡類を集め、『西方指南抄』を編もうとしたのだという説がありました。確かに親鸞聖人自筆の『西方指南抄』が現在に残っています。真宗高田派本山専修寺の所蔵です。それを親鸞が筆写した年代を見てみましょう。『西方指南抄』は、上・本、上・末、中・本、中・末、下・本、下・末という六巻で構成されています。
康元元年(1256)親鸞84歳、10月13日『西方指南抄』上・末を書写。
14日『西方指南抄』中・末を書写
30日『西方指南抄』下・本を書写
11月8日『西方指南抄』下・末を書写
正嘉元年(1257)親鸞85歳、 1月1日『西方指南抄』上・末を校合
2日『西方指南抄』上・本を書写
『西方指南抄』中・本を書写校合
2月5日『西方指南抄』下・本を書写
古来、『西方指南抄』は、親鸞聖人が編集したと推定されてきました。しかし「異説もある」(『真宗新辞典』法蔵館)、「別人が編集」という説もある(『浄土真宗辞典』本願寺出版社)、などとも言われています。上掲の一覧でわかるように、順序どおりに上・本から書写されていないからです。その過程での校合なども自作ならちょっと考えにくいです。
それに、仮りに親鸞聖人が編集したとしても、帰京後24、5年も経っています。その編集を目的に帰京したとは考えられません。
⑥ 親鸞聖人はなぜ見返り橋を渡ったのか?(続々)
第三の説として、『教行信証』を完成させるためという説があります。『教行信証』の正式名称は『顕浄土真実教行証文類』です。「文類(もんるい)」というのは、文字で作り上げる作品の形態の一つです。小説・紀行文・戯曲(劇の台本形式の作品)・日記・エッセイなどという形態ならば、それぞれの特色はだいたいわかります。しかし「文類」は分かりにくいです。これは諸経典あるいは古典から引用した文章で自分の考えをまとめる作品です。
親鸞が文類である『教行信証』を執筆するためにはたくさんの参考文献が必要です。52歳の時に一応完成させたとはいうものの(坂東本『教行信証』)、中国から新訳の経典や新しい注釈本(論・疏などと呼ばれます)が断続的に輸入されています。それを見るためには、やはり京都にいる方が便利でしょう。
ただ当時の平均寿命は40代前半でした。すでに60歳に達していた親鸞聖人が90歳まで存命するなんて誰も思っていなかったはずです。聖人自身さえも。しかし後世の私たちは聖人が90歳まで長生きしたことを知っているので、60歳からあと30年もある、この長い期間、聖人は何かの事をしようという目的で帰京したに違いない、その目的は何だろうか、と考えがちなのです。しかし実際にはそのような目的を立てられない年齢で帰京したのです。聖人が『教行信証』を80歳ころまで補訂し続けたというのは、結果的にそうなったと考えるべきだと思います。
親鸞聖人に、「必ず何らかの重大な作業をするために帰京したに違いない」、と完璧な人格を押し付けるのは聖人に気の毒であるというのが私の考えです。
⑦ 親鸞聖人はなぜ見返り橋を渡ったのか?(新続)
ではなぜ親鸞聖人は京都へ帰ったのでしょうか。それは従来から小さな声で言われていた、「人は還暦になると故郷へ帰ってみたくなるものだ、親鸞聖人もそうだったのではないか」という説に魅力を感じます。特にこれこれをしようという目的ではなかったのだろうと思うのです。
『親鸞伝絵(御伝鈔)』に、京都に帰った親鸞聖人について次のように記されています。
聖人故郷に帰て往時をおもふに、年々歳々夢のごとし、幻のごとし。長安
洛陽の栖(すみか)も跡をとゞむるに嬾(ものうし)とて、扶風(ふふ
う)馮翊(ひょうよく)ところどころに移住したまひき。
「親鸞聖人は故郷に帰って昔のことを思うと、今までの歳月は夢のように
思え幻のようにも思えました。京都での住所を決めるのは気が進まない
と、郊外を転々としていました」。
『親鸞伝絵』では、京都での住所を中国の洛陽になぞらえて説明しています。洛陽の中心部としてにぎわっていたのは、洛陽の東部分の地域でした。扶風とはそれ以外の地域で、洛陽北部分の郊外地、馮翊とは残りの西南部分の郊外地のことです。それを京都の郊外にあてはめ、扶風・馮翊と表現したのです。聖人は人のあまり来ない京都の郊外に行方をくらました気配です。やがて五条西洞院あたりに居を構えますけれども、それまで親鸞聖人は誰にも会いたくなかったのです。とても張り切って仕事をしようと京都へ帰ったようには見えません。
見返り橋の先には、親鸞聖人にとってかなり苦しい生活が待ち受けていたようです。