【2013年7月8月の活動】
著書の出版
ここでは、本年7月・8月の出版活動について記します。
《著書》
➀『日本語と日本人のこころ(対訳 日本語:アラビア語)』
国際交流基金カイロ日本文化センター
私は、2010年から2012年の間、4回にわたってエジプト・カイロの大学に赴任しました。そのおり、カイロ日本文化センター何度か日本文化講演会を行いました。毎回、アラビア語の通訳の方についていただきました。本書は、その講演のうちの4本を収録しました。それぞれのテーマは、
1、「私」という主語を省略する日本語
2、否定語が最後に来る日本語
3、「ありがとう」と「すみません」
4、人称代名詞(「わたし」「あなた」など)の種類の多い日本語
です。このようなテーマの日本語・日本文化論でアラビア語との対訳本は非常に珍しいと、本書はアラビア語を母語とする中東諸国(東はアフガニスタンから西はモロッコまで)の日本語教育機関に送られているそうです。
《論考》
➀「如信と法龍寺」(親鸞の家族ゆかりの寺々 第9回)
『自照同人』第77号(2013年7・8月号)
法龍寺は茨城県久慈郡大子町上金沢にあります。如信の墓所のある寺院です。その本堂には十七世紀の後半に制作された如信坐像や聖徳太子立像が安置されています。
【連載・親鸞聖人と稲田⑸】
-『親鸞伝絵(御伝鈔)』に見る稲田の重要性―
➀ 『親鸞伝絵』と『御伝鈔』
親鸞聖人についての詳しい伝記である『親鸞伝絵』は、覚如が弱冠二十六歳の時に執筆したものです。それは数え年ですから、覚如はとても若い時期に伝記を書き上げたことになります。その若い覚如が執筆した『親鸞伝絵』が、その後七百年以上にわたって親鸞聖人の伝記の基本史料として権威を持っているのは、驚くべきことと思います。覚如は、親鸞聖人の伝記の執筆と、その思想を特色づけることには天才的な能力を発揮したのです。
なお『親鸞伝絵』は絵巻物の形式の伝記です。絵巻物は、まず文章だけの詞書の部分があり、次にその詞書に関わる絵があります。絵巻物はその繰り返しで成り立っています。そして絵巻物である『親鸞伝絵』の詞書だけを順に集めて独立させたのが『御伝鈔』です。
この『親鸞伝絵』に稲田のことが出てきます。それは、覚如が稲田の実態をどのように把握していたのか、また親鸞聖人の布教活動にとって稲田がどのような意味を持っていると考えていたのかを、明瞭に語っています。それらのことは、『親鸞伝絵』の二つの場面を見ていくことによって明らかとなります。
➁ 六角堂の救世観音のお告げ
『親鸞伝絵』に、親鸞聖人が京都・六角堂の本尊救世観音からお告げをいただいたことが記されています。それは、
行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽
「仏道の修行者が前世からの因縁(宿報)によって結婚することになるならば、私がすばらしい女性となって妻となろう。そして一生の間よい生活をさせてあげよう。将来に来るそなたの臨終にあたっては、手を取って極楽へ導いてあげよう。」という内容の、1行が漢字7文字、4行の漢詩です。これを浄土真宗の歴史では「行者宿報の偈」と呼んでいます。「偈(げ)」とは、「仏の徳を褒めたたえる漢詩」という意味です。
➂ 観音菩薩の指示
ところが『親鸞伝絵』によりますと、救世観音はその後親鸞に次のように指示しました。
此是(これはこれ)我(わが)誓願也、善信この誓願の旨趣を宣説して、
一切衆生にきかしむべし。
「これは私の誓願である。そなた善信はこの誓願の趣旨をすべての人々に分かりやすく伝えなさい」。「善信」とは親鸞聖人のことです。
この指示は、「親鸞聖人に結婚を勧めていることをすべての人々に伝えなさい」と受け取ることもできますし、「すべての仏道修行者に結婚を勧めていると伝えなさい」と受け取ることもできます。前者でしたら結婚するのは親鸞聖人のみ、後者でしたらいわば人間全員ということになります。
覚如は、救世観音の夢のお告げの内容をどうして知ったのかといえば、『親鸞伝絵』に「彼(か)の記」とか「此記録(このきろく)」という言葉がありますから、親鸞聖人ないし他の人が書き残した記録を見たのでしょう。覚如が誕生したのは親鸞聖人が亡くなってから4年後ですから、直接親鸞聖人から聞いたということはあり得ません。
➃ 東方の高い山とそこに集まっている無数の人びと
この指示を受けた時、親鸞聖人は夢の中で六角堂の正面に立って東の方を見ると、
峨々(がが)たる岳山あり、その高山に数千万億の有情(うじょう)群集
(ぐんじゅ)せり(『親鸞伝絵』)。
「険しくそびえたっている山があり、そこに数千万億の人びとが群がり集まっていた」そうです。そこで親鸞聖人は観音菩薩の指示どおり、彼らにお告げを説明し終わったところで夢が覚めたそうです。
➄ 覚如の判断
救世観音の夢告と、それに続く親鸞への指示とのつながりは、正直なところ分かりにくいです。なぜ結婚の話を数千万億の有情に説き聞かせねばならないのか。念仏の広まりとどのような関係があるのか。それらは一目瞭然ではなかったのです。そこで覚如はいろいろと考えたのです。『親鸞伝絵』に、
倩(つらつら)此記録を披(ひらき)て彼夢想を案ずるに、
「この六角堂でのことが書かれた記録を紐解き、夢告の意味を考えてみるに」とあります。そして覚如は次のように判断しました。
ひとへに真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表示也。
「(夢告とそれに続く観音の指示は)ほんとうに真宗が繁栄する珍しいすばらしい予兆であり、念仏が広まり盛んになることを示しています」。
『親鸞伝絵』は覚如が執筆したのです。その覚如が「念仏弘興の[表示]」といっているからには、それが[実現しました]とか[達成しました]とか記す項が『親鸞伝絵』の後段にあってもよいだろう、あってしかるべきだろうということになります。そうでなければ首尾一貫しないし、文才のある覚如がそのことに気がつかずに書き進めるはずはありません。後段を探ると、それは確かにあったのです。それは親鸞聖人が越後を経て関東で稲田に住んだ項に、それに続けて記してありました。
➅ 親鸞聖人が稲田に住んだこと
『親鸞伝絵』に次のように記されています。
聖人越後国より常陸国に越(こえ)て、笠間郡(かさまぐん)稲田郷(い
なだのごう)という所に、隠居したまふ。幽棲(ゆうせい)を占むといへ
ども道俗跡(あと)をたづね、蓬戸(ほうこ)を閉(とず)といへども貴
賤衢(ちまた)に溢る。
「親鸞聖人は越後国からはるばる常陸国にいらっしゃって、笠間郡稲田郷というところに隠れ住まわれました。ひっそりと生活されておられたのですが、僧侶や俗人が訪ねてきて、雑草が生えている門を閉じていたのですけれども、身分の上下の人たちが道路にあふれていました」。
覚如の「隠居」「幽棲」「蓬戸」という、稲田がいかにも寒村であったかの表現は適当ではありません。稲田が南北に走る街道の宿場町(大神駅<おおかみのうまや>)で、同時に大神社(稲田神社)の門前町であったことは、本連載第3回で説明しました。
➆ 観音菩薩の指示の成就
前述の「道俗跡をたづね」「貴賤衢に溢る」という叙述を受け、続いて『親鸞伝絵』に次の記事があります。
仏法弘通(ぶっぽう)の本懐(ほんがい)こゝに成就し、衆生利益の宿念
たちまちに満足す。
「念仏を広めたいという本来の思いはここでうまくいき、人々を救いたいという以前からの思いが十分に満たされました」。
そしてさらに続けて、
この時、聖人被仰云(おおせられていわく)、救世菩薩の告命(こくみょ
う)を受(うけ)し往(いにしえ)の夢、既に今と符合せり。
「この時に親鸞聖人が仰ることには、救世観音のお告げと指示を受けましたあの時の夢は、もう既に現在の状況とぴったり重なっています」という親鸞聖人の結論である、というのが覚如の認識です。
ただ前述のように、親鸞聖人が六角堂で救世観音から指示を受けた時、東方に「峨々たる岳山あり。その高山に、数千万億の有情群集せり」と『親鸞伝絵』にはありました。稲田草庵を引き継ぐ西念寺の背後には稲田山があります。稲田山は「峨々たる」というほどでもないと思うのですが、やがてはもっと険しい常陸国と下野国の国境の山々に連なっていきます。『親鸞伝絵』ではその山々も含めて述べているのかなと思います。
多少あいまいな部分はあるにしても、覚如は『親鸞伝絵』の中で、親鸞聖人の布教活動における稲田の重要性を強く説いたのです。