今年も秋が深まってきました。さしも暑かった夏も終わり、大きな被害をもたらした台風も、もう日本列島上陸はない気配です。親鸞のころの気候はどうだったのでしょうか。そのころの暦は月の満ち欠けを軸にした太陰暦で、1ヶ月は29日か30日でした。その関係で、4年に1回の割で閏月がありました。それは、その年には2月の次に閏2月が来る、といった具合でした。閏月はいつも2月ではなくて、適当に(むろん、暦を作成する陰陽師たちが一定の法則に沿って)各月に分散していました。ですから農作業もやりにくいこともあったでしょう。暦に頼るのではなくて、実際の天候や野山の風景の移り変わりをもとに農作業を行なうことが多かったと考えられます。
それは、たとえば桜が咲き始めたら田おこしをする、などです。「桜(さくら)」という名は、「さ」と「くら」を合わせたものと言われています。「さ」は春の神様のことです。冬の間じゅう、山の奥に入っているのだそうです。それが早春になると田に帰ってきて、ある木の上に座るのだそうです。座る所が「鞍(くら)」です。春の神様が座る所が「さくら」すなわち桜で、桜の花が咲けば、「あ、春の神様が来たな、そろそろ田おこしを始めよう、農作業を始めよう」ということになったのだそうです。
江戸時代から「おめでたい」に掛けて、魚では「鯛(たい)」が尊重されるようになりました。しかし親鸞の時代に尊重されていたのは「鯉(こい)」でした。滝を登ったり、勢いのよい魚だったからでしょう。また鯛のように限られた深海にいるのではなく、日本中に広く分布していたからでもあるしょう。
動物では鹿や猪もずいぶん食用にしました。親鸞も、「自分の食用のために殺したのでなければ、動物の肉を食べるのは問題ではない」としていました。「四つ足の動物を食用にしてはいけない」という思想が広まったのは、江戸時代になってからでした。
親鸞のころは1日の食事も2回でしたし、一日の仕事開始のために役所の門が開くのは日の出の時でしたし、ずいぶんと生活の様式が現代とは異なっていました。
親鸞の伝記や浄土真宗史を研究する際には、当時の社会の様子を十分に念頭に置いて、慎重に進めなければなりません。
【2016年9月10月の活動】
著書の出版:ここでは私の今年(2016年)9月・10月の著書などについて記します。
《著書》
①『六十歳の親鸞─帰京。関東に別れを告げる─』
(関東の親鸞シリーズ15【最終】)
親鸞が関東に別れを告げて帰京した60歳の時の状況を明らかにしたもの。このシリーズはこの15で最終にしました。
《論考》
①「親鸞の風貌」(連載「親鸞の東国の風景」第1回)
『自照同人』第96号(2016年9・10月号、2016年9月10日)
『自照同人』に連載していた「悪人正機の顔」は、前号の第95号に第11回を掲載したのを最後に終わりにしました。「親鸞の東国の風景」は新しい連載です。親鸞は鎌倉時代の建保2年(1214)年から貞永元年(1232)、42歳から60歳までの18年間、東国に住んで活動していました。本連載は、この間に親鸞が見た東国の環境と生活に注目し、それを「風景」として探ってみようという趣旨の連載です。第1回は、親鸞が東国でどのような風貌をしていたのかということについてです。
②「親鸞と高田の真仏」『親鸞の水脈』第20号(真宗文化センター、2016年9月10日)
高田門徒の本拠である大内荘(現在の栃木県真岡市の大部分と益子町・芳賀町の一部)とその付近における親鸞と真仏の行動をその俗縁(親族・姻族、知人)関係から探ってみようとしたものです。
③「報恩講に寄せて」『報恩講』(本願寺出版社、2016年9月1日)
『報恩講』は、浄土真宗本願寺派の2016年報恩講の施本です。拙稿は論考ではないのですが、ここに掲載しておきたいと思います。
【連載 親鸞と慈円と青蓮院 ⑴ 】
①
ここでは、『親鸞伝絵』に親鸞の出家の戒師として慈円が示されているのはなぜか、やがて青蓮院との関係が示されていくのはなぜか、ということを見ていきます。ただいま、来年のサマーセミナーのテーマを検討中です。それに関わり、昨年のサマーセミナーで触れた親鸞出家をめぐる問題を改めて明らかにしていきます。
②
覚如は『親鸞伝絵』を執筆するにあたり、親鸞の関東時代の42歳から60歳までのことを3つの挿話で18年間を代表させています。それは親鸞聖人と稲田草庵のこと、親鸞への山伏弁円の帰服、そして親鸞の箱根権現訪問です。
親鸞と稲田草庵、および親鸞と山伏弁円のことはよく理解できます。稲田草庵は関東の住居としてもっとも重要な所です。山伏弁円は、親鸞の布教活動は必ずしも楽な毎日ばかりではなかった、しかし抵抗した人たちも結局は親鸞の威に打たれて帰服したという話の代表例です。
しかし、3番目の箱根権現訪問はどういうことでしょうか。なぜ箱根権現なのでしょうか。いわゆる神祇不拝のどうこうとかいった問題ではなくても、18年間の関東での活動の中でまだ他に言うことがあるだろうということです。たとえば『教行信証』の執筆、とか。鎌倉での一切経校合作業に参加、とか。それなのに、3つの挿話の中の重要な一つとして箱根権現を語っているのはどうしてでしょうか。むろん、そこには覚如の重要な意図があったに相違ないのです。その人間性から判断して、政治的意図であったろうと推測されます。
③
さて、では覚如はなぜ『親鸞伝絵』に「親鸞は伯父範綱に連れられ、慈円の下で出家した」と書きこんだのでしょうか。原文は次のようになっています。文中、
「苗裔」は「子孫」
「阿伯」は「伯父さん」
「法性寺殿」は「藤原忠通」
「月輪殿」は「九条兼実」
「範宴少納言公(はんねん・しょうなごんの・きみ)」は寺院の中での通称です。この通称のことを、「公名(きみな)」といいました。この公名は俗人の太郎・次郎といった仮名(けみょう)に相当します。
聖人の俗姓は藤原氏天児屋根尊二十一世の苗裔(中略)皇太后宮大進有範の子也。(中略)九歳の春比(はるころ)阿伯従三位範綱卿【于時、従四位上前若狭守、後白河上皇の近臣、聖人養父】前大僧正【慈円、慈鎮和尚是也。法性寺殿の御息、月輪殿は長兄】の貴坊へ相具したてまつりて、鬢髪を剃除したまひき。範宴少納言公と号す。
④
では慈円の政治的立場はどうだったでしょうか。
慈円はこの時、右大臣であった九条兼実がもっとも頼りにした同母弟です。兼実の父忠通は10人の息子のうち3人に家を継いで摂政・関白になる資格を与えました。近衞基実・松殿基房・九条兼実の3人です。いずれも異母の兄弟です(ただし、基実の母と基房の母は姉妹)。基実と息子基通、基房には摂政と関白がまわってきましたが、兼実は当時の権力者平清盛との関係が悪く、15年間右大臣のままでした。焦った兼実は息子良通の妻に清盛の外孫の娘を迎えるなどして、清盛に接近を図っていました。
藤原忠通─┬─近衞基実──基通
├─松殿基房
├─九条兼実──────────良通
└─慈円 ┃
花山院兼雅(左大臣) ┃
┠──────女子
平清盛─女子
親鸞の父有範も、親鸞に先立って出家したと考えられます。その理由は政治的失敗であろう、前年の治承4年(1180)の以仁王の乱に始まる、平清盛打倒の企てに参加して失敗し責任を取らされたのであろうとされてきました。そういうことなら、慈円が戒師になってくれる可能性は薄いでしょう。
┌日野範綱
├──宗業
└──有範──親鸞
⑤
では親鸞の伯父の日野範綱と日野宗業について見ていきましょう。
親鸞を慈円のもとに連れて行ったとされる伯父藤原範綱は後白河法皇の近臣で、特に親しく仕えていました。法皇は清盛の権勢拡大を嫌い、常にその勢力を抑える策略を巡らしていました。治承元年(1177)、法皇の意を受けた藤原成親・俊寛らが起こした鹿ケ谷事件では範綱も平家方に捕まり、拷問の上、播磨国に流されています。帰京後は再び法皇のために熱心に働いています。その範綱が慈円に親鸞の戒師をお願いできるかどうか。ちなみに慈円もまだ27歳と若く、まだ天台座主になったことはありません。最初に就任したのはそれから11年後です。慈円自身も、平家全盛のもとで天台座主就任を睨んだ動きをしなければならないのです。
慈円も親鸞も藤原氏という同族だから、慈円は戒師を引き受けるだろうという簡単な話ではありません。
親鸞のもう一人の伯父日野宗業は、親鸞出家の年の9月以降、兼実の絶大な支援を受けます。それはこのころの兼実の日記『玉葉』を見れば明らかです。兼実は宗業の学問的能力を絶賛しています。しかし「春比」(『親鸞伝絵』。この年の春は、1月・2月・閏2月・3月)にはすでに40歳ながらまだ修行中の身で、学者として立つ上での資格取得に懸命でした。とても親鸞の援助に回れる余裕も力もありません。
もちろん、甥が出家するのを手伝えないほどまったく余裕がなかったわけではないでしょう。
⑥
親鸞が関東に到着したころ、範綱はかなり前に引退しておりました。実質上活躍していたのは宗業の方です。後鳥羽上皇の近臣で、上皇の大のお気に入りでした。いま主流になっている日野氏関係系図では、日野範綱が出家のために親鸞を慈円のもとに連れて行ってくれたことになっています。でも一つだけなのですが、実は宗業が連れて行ったという系図もあるのです。
しかし後鳥羽上皇が承久の乱で敗れて隠岐の島に流されてしまった時、宗業もともに没落した気配です。宗業の息子たちはかなり低い職にしかはつくことができませんでした。範綱の息子たちよりもぐっと格下の職ばかりです。
事実はどうであったのかという追求をしなければなりませんが、少なくとも覚如はこの宗業が親鸞を出家させてくれたとは『親鸞伝絵』に書けなかったのではないか、と私は考えています。覚如は政治的な判断を優先しようと考える人物でした。
いずれにしても、『親鸞伝絵』になぜ「親鸞は慈円の下で出家した」と書いてあるのでしょうか。本連載では、いずれ私の考えるところを述べたいと思います。